って、飽くまで厳正な史実の上に立っていなくてはならないと云うことが云える。史実上に立って、自分の描き出そうとする適当な世界をその史実の中に発見しようと努力すること、そこに歴史小説を書こうとする大衆作家のよき意図が見出だされるのだと思う。
例えば、
坪内逍遥氏の「桐一葉」、或は「沓手鳥孤城落月《ほととぎすこじょうのらくげつ》」とか、
その他、
真山青果氏の維新物の諸作品「京都御構入墨者」「長英と玄朴」「颶風《ぐふう》時代」。
等は、歴史家としての専門的知識、並びに考証が充分になされていて、その史実を基礎として、史実を少しも歪曲《わいきょく》することなくして而も文学者としての正しき解釈を加えたものと見ることが出来るのである。
然るに、一方、現在|瀰漫《びまん》するところの大衆作家諸君の作品は、史上実在の人物、例えば近藤勇の名前を方便上借り来って、史実を曲げ、気儘な都合よき事件を創造し、剰《あまつさ》え勝手なる幽霊主人公を自由自在に操り来り操り去る等、歴史小説としては許されざること甚だしきものが少くないのである。もし、斯ることが許容されてよきものとするならば、極端にいえば、題材を
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