ということは、人間の考え方の一つの重大な誤りであった。精神生活のみが人間の唯一の生活ではない。精神生活のみが尊く、物質的生活が卑しいという事は、明らかに誤謬《ごびゅう》である。だが、まだ人間は、他の動物にない思索力を有するが故に、しばしばそれを過度に尊敬して来たし、現在でも一部分の者はしているのである。
 そして、この誤謬を直さんとする運動の一つが、社会運動である。人間全体の生活をよくする事は、文学に於てよりも、直接の社会運動による事が遥かに有力であると、発見したからである。文学は寧ろ社会運動に利用されようとするに到った。
 この思索の過重的尊重という事が、芸術小説の癌を為《な》している。それが如何に、低級、浅薄であろうとも、それのみを尊重して、興味ある事を除くという事が、精神生活に於ては尊いという風に考えられていた。
 一体、思索の尊さは、読書人がそれによって、感激する場合のみである。何の感激も与え無い、陳腐にして、常套的なる物が、余りに多く描かれ、過去の文学は既に感激を失って了った。現在、果してトルストイ伯の、ドストエフスキイの作品が人々に昔程の感激を読者に与えるであろうか。
 精
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