達が作品に現れるユーモアを極端に軽蔑したことも、ユーモア作家の少いことの、そして、従って優れたユーモア小説の少いことの重大な原因をしているのである。現在、ユーモア小説作家としては、大泉黒石、佐々木邦の二人を除けば、皆無といっていいであろう。私の考えでは、かの夏目漱石の「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」は、立派なユーモア小説であると思っている。
 現在、世にユーモア小説として喧噪されているものの殆んど総ては、低級な言葉上の洒落とか、業々しく無理にユーモア的に歪められたる会話、故意に笑わそうと作られたるもののみである。かかるもののみがユーモア小説とされている現状に於て、我々は大いに考え直さなくてはならない。
 だが勿論、ユーモアには、言葉及び会話の自然的な可笑しさが重大な役目を持つのである。外国のユーモア小説が翻訳されても、面白さが半ばなくなるのもその為である。例えば、改造社の世界大衆文学全集で翻訳されているし、フィルムにもなって我国へ輸入されたから、読者諸君も知っているだろうが、亜米利加で驚くべき売れ行きを示しているアニタ・ルース夫人作の「殿御は金髪がお好き」というユーモア小説でも、原書
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