た。
大正八九年頃、当時、私は「主潮」と謂う雑誌を編輯《へんしゅう》していたのであるが、その中で、私は「大菩薩峠」と、後藤宙外の大阪朝日新聞に書いた小説とを比較して、「大菩薩峠」の優れていることを賞讃したことがあったが、それも又一般の人々の認める処とはならなかったのである(以下、少々私自身の自慢のように聞えるかも知れないが、事実であるから何とも致しかたのないことだと思う)。その後、春秋社に這入《はい》った私が、喧嘩別れをして出た時に、大菩薩峠を置土産にして去ったのであった。
「苦楽」が発行されることになって、私が編輯の任に当った。そこで私は有名な文壇人達に同誌上へ通俗小説を書いて貰い、自分も書いた。それから大衆文芸の機運が漸く動き始めたと云っていいと思うのである。そこで、長谷川伸、平山蘆江、土師《はじ》清二、村松梢風、大佛次郎、吉川英治等が続々と新らしい大衆文芸を提供し、広汎な読者層が、之に応じ始めたのである。
この新らしく勃興し来った大衆文芸が以前のそれと異る処は、次の諸点であろう。
即ち、人物に人間性を与えたこと、物語が事実らしくなって来たこと、文章に新鮮味が加わったこと、等
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