書いた。
 同時に、講談は、明治十一年に表れた「牡丹燈籠」を最初として、之又続々と新聞に連載された。
 以上のごとく、通俗小説は、明治三十年頃を絶頂として未曾有の盛観を極め、更に百花撩乱たるの観あること、今日の大衆文芸の盛んなること以上であった。今日の如きは大衆文芸の重要なる一分野である少年文学は全く見る影もなく衰えている。この当時の文壇と、震災以前、大衆文芸勃興以前の文壇とを比較して見るなら、如何に文壇小説がその後、尊ばれ、以外の文学が軽蔑され、衰えたかを一目瞭然と知ることが出来るであろう。例えば少年文学にしても、その分野に踏み止るもの小説唯一人であった。
 かかる文壇小説偏重の悪傾向は、如何なる原因より発し如何にして助長されたのであろうか。
 我々は、此処で、日本に稀なる四人の文芸批評家の出現を省《かえり》みなければならない。即ち、高山樗牛、森鴎外、坪内逍遥、島村抱月が之である。当時、我国には前述の如く、通俗小説以外に文芸は皆無であった。彼等四人の評論家は口を揃えて、文学の正統性を論じ、純粋文芸の必要を力説し、主張し、堂々たる文学論を戦わしたのであった。彼等の云わんとする処は正しか
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