失笑させることができた。と同時に、その流行のすたれた時、その言葉は無価値な、嫌味以外の何ものでもなくなる。
又、例えば今日、「竹取物語」を「ユーモア小説」だといったとて、夫れを承認する人はないであろう。だが、「竹取物語」は当時の「ユーモア小説」に違いなかったのだ。その当時のユーモアが今日ではわからなくなっているのだ。その時代の風俗や、欠点、特徴なぞを最も誇張したもの、そうした作品は風俗の変化とともに滅ぶのである。
以上のごとく、不偏普及的な「ユーモア小説」が要求されながら生命が短く、今日のごとき動揺時代には殆んど本当のユーモア作家もあらわれ難いのではないだろうか。
今日、代表的なものといえば、やはりアニタ・ルースの「殿御は金髪がお好き」位であるが、それとてもアメリカの風俗特に近代女性の誇張であって、アメリカ人、アメリカを知るもののみに面白く読まれるのである。勿論、今日、日本のみならず諸国がアメリカ化されつつある点から見て、アメリカニズムは日本人のみならず世界中の人びとにもしたしみ易いであろうから、従ってある点までの普及性は有するであろうが、その翻訳に依る価値の半減はどうにも出来な
前へ
次へ
全135ページ中126ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング