。こう云うとモリエールの彼の有名な戯曲とか、セルバンテスのドン・キホーテなどは、「ユーモア文学」でないという説が出て来るのであるが、私は勿論、そういうものが「ユーモア文学」であるとは考えたくない。
 人生を喜劇的に表現しただけで、それだけでいいのである。ユーモアは徹頭徹尾ユーモアでなくてはならない。例えば、モリエールの作品は、読んで了った後に人生の滓《かす》が残る。「ユーモア小説」は読後に何んにも残らなくてこそいいのである。だから「ユーモア小説」はその国独特のものでなくてはならないし、作者自身にも凡ゆる事物に対する特殊な神経、――敏感性が必要なのである。モリエールの諷刺、シエクスピアの洒落は翻訳し得るであろう。だが「浮世風呂」等は翻訳して了っては大半の味わいは抜けて了う。従って、文学的にも永久的な価値が非常に少いものしか出来ないのである。言葉のニュアンスとかその国語独特の洒落とかは、かなり「ユーモア小説」には必要であって、然も翻訳出来ないものなのである。従って一般性もないわけである。
 例えば近年流行した俗語に、「いやじゃありませんか」という言葉があった。それは最も巧みに使うとき、人を
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