文学の必然的な道程ではあるまいか。
第四章 文章に就いて
これより、愈々本論にはいる訳である。この章では、一般的に大衆文芸は、如何なる文章を適当とするか、を講ずる意《つも》りである。
大衆文芸に於ける文章は、記述の明晰にして理解し易いことを、第一条件とする。つまり、「話すが如く書く」ことを根本原則とするのである。だから、出来得る限りに於て芸術上の技巧的な個人性を出さないように努めなくてはならぬ。何故なら、技巧の表現の個人性が深まれば深まる程一般の人々に解りにくくなるものだからである。芸術が言葉の表現にある以上、芸術家としては技巧上の個性と謂うものは当然現れるものではあるが、所謂芸術小説とは異り大衆文芸といわるる一般向きのものであるからには、表現上個人的特異性のあまり深まるようなことは避けなくてはならない。此のことは、古来屡々芸術家に依っても云われて来たことであって、仏蘭西の詩人レミ・ド・グルモンも「話すがごとく書くべし」と主張している。
だから、芸術小説と大衆小説との分岐点は題材の如何にあるのでは無くて、寧ろその文章にあるのである。例えばエドガア・アラン・ポーの幾つかの奇怪なる物語は、まさしく大衆的に興味を惹くものではあるが、その文章はあくまで個性を発揮した、立派な芸術小説的なものである如き然りである。だから、ポーの文学的地位は芸術作家であって、決して通俗作家ではない。試みに、日本の現在に於て、最も特異な文章を書く芸術作家として、有名な、横光利一君の文章を引用して置こう。後に挙げるであろう処の、大衆作家の文章と比較されたら、面白いと思う。
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ナポレオンの腹の上では、今や田虫の版図は径六寸を越して拡《ひろが》っていた。その圭角をなくした円やかな地図の輪廓は、長閑《のどか》な雲のように美妙な線を張って歪んでいた。侵略された内部の皮膚は乾燥した白い細粉を全面に漲らせ荒された茫茫たる沙漠のような色の中で僅かに貧しい細毛が所どころ昔の激烈な争いを物語りながら枯れかかって生えていた。だが、その版図の前線一円に渡っては、数千万の田虫の列が紫色の塹壕《ざんごう》を築いていた。塹壕の中には膿を浮べた分泌物が溜っていた。そこで田虫の群団は、鞭毛を振りながら、雑然と縦横に重なり合い、各々横に分裂しつつ二倍の群団となって、脂の漲った細毛の森林の中を食い破っていった。
フリードランドの平原では、朝日が昇ると、ナポレオンの主力の大軍がニヱメン河を横断してロシアの陣営へ向っていった。しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽く彼らの過去に殺戮《さつりく》した血色のために気が狂っていた。
ナポレオンは河岸の丘の上からそれらの軍兵を眺めていた。騎兵と歩兵と砲兵と、服色|燦爛《さんらん》たる数十万の狂人の大軍が林の中から、三色の雲となって層々と進軍した。砲車の轍《わだち》の連続は響を立てた河原のようであった。朝に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛の馬の平原は狂人を載せてうねりながら、黒い地平線を造って、潮のように没落へと溢れていった。(「ナポレオンと田虫」)
――山上の煉瓦の中から、不意に一群の看護婦達が崩れ出した。
「さようなら。」
「さようなら。」
「さようなら。」
退院者の後を追って、彼女達は陽に輝いた坂道を白いマントのように馳《か》けて来た。彼女達は薔薇の花壇の中を旋回すると、門の広場で一輪の花のような輪を造った。
「さようなら。」
「さようなら。」
「さようなら。」
芝生の上では、日光浴をしている白い新鮮な患者達が坂に成って果実のように累累《るいるい》として横たわっていた。
彼は患者達の幻想の中を柔く廊下へ来た。長い廊下に添った部屋部屋の窓から、絶望に光った一列の眼光が冷く彼に迫って来た。
彼は妻の病室のドアーを開けた。妻の顔は、花弁に纏わりついた空気のように、哀れな朗らかさをたたえて静まっていた。」(「花園の思想」)
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そこで、大衆文芸の文章は? くだけて云うなら、難渋な文章を書いてはいけない[#「難渋な文章を書いてはいけない」に傍点]のである。仮りに、今、手もとにある、同じ二月七日の夕刊から三つの例を次に取って見よう。諸君自身、吟味比較して読んでみ拾え。
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四人の武士が集って、燭台の燈火を取り巻いていたが、富士型の額を持った武士が一人だけ円陣から抜けだしてふすまの面へ食っついたので、円陣の一所へ空所が出来て、そこから射し出している燈火の光が、ふすまの方へ届いて行って、そこに食いついている例の武士の、腰からかがとまでを光らせている。腰にたばさんでいる小刀のこじりが、生白く光って見えるのは、そこへ燭台の燈火が、止まっているがためであろう
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