のことといわねばなるまい。
 だから、可成|出鱈目《でたらめ》の事件もあり、荒唐無稽の人物も出没し、ただ専《もっぱ》ら、事件の波瀾重畳のみを本意として興味をつなぐ以外に何ものも見いだし得ないのである。
 この傾向に抗して、かの大佛次郎君なぞは大衆物に、より芸術的なもの、小説的なものを与えようと努力し、効果を挙げているし、その他にも次第にかかる傾向の作品が現れて来たようであるから、何れ大衆文芸が小説として評価されるときも近いであろうと思われる。
 現在の大衆文芸に関して、私は、今、興味中心、娯楽中心なぞと一口にいって了ったけれども、この意味を少し深く考えて見ると、次の二つに区別されるようだ。
 すなわち、恋愛と剣戟《けんげき》と。その二つの交錯が織りなす物語であって、その二つの要素以外に何もない。どの大衆物を見ても、その題材が以上の点で限られている以上、殆んどあらゆる点に於て制約されて来る。だから、どれを読んでも同じような事件と人物のために、遂に読者に厭かれてくるのは当然のことであろう。
 ところが、大衆文芸が(或は時代映画――剣戟映画が)、厭かれはじめながら、なお且、甘ったるい恋愛とチャンチャンバラバラを中心として、その命脈を保っているのはどうしてであるか――思うに、人間には常にかかるアムビシャスな、奇怪な、グロテスクな、謀叛的な、革命的な、そして英雄的なものを要求する傾向――本能の一面があるのではなかろうか。殊に、日本の文壇小説が自然主義に禍いされ、誤った、極限された方向へ突進んでこういう要素を取除いて了った、それがために愈々昂って来たところの以上のような要素への渇望に大衆文芸が投じたのではあるまいか。
 それと、今一つ、日本人には特に、一種の伝統的な剣戟の趣味がある。この著しい例は、殊に歌舞伎劇に見られる。世界中の芝居の中で、単に人を殺すことだけで独立して劇を形造っているようなものは、歌舞伎劇をおいて他にないであろう。例えば――
「団七九郎兵衛の長町裏の殺場」とか、
「仁木弾正の刃傷場」とか、或は、
「敵討襤褸錦《かたきうちつづれのにしき》」の大詰なぞ。
 以上のようなものは二人、もしくは三人がただ斬り合って殺すだけで、他に劇を構成する何ものも見出さないのである。勿論、そこには歌舞伎劇独特の形式美と感覚はあるが、その他に、日本人が殺人、流血に特殊な興味をもってい
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