用の、ステッキのような恋愛である。
 六、同志的恋愛。コロンタイ女史の小説に表れるような最も新らしい型の恋愛であって、何よりも第一に、政治的に思想的に一致した意見によって同志として結ばれていなければならない。これは、労農ロシアの若きゼネレーションの中から必然的に生れたもので、近頃日本でも林房雄なぞに云々され、流行せんとする傾向があるが、本来はそんな軽率な、皮相的なものではないのであろう。

  五、ユーモア小説

 一体、ユーモアとは、現象の見方にある。人生に、到る処に絶えない数限りなき悲劇的現象を、喜劇的に見たものがユーモア小説なのである。だから需要は常にありながら作者が非常に、稀なのである。ユーモア小説作者の稀なことには、二重の不利が存在するからである。一つは、他から反感を抱かれ勝ちであること。そして、今一つは、作法上に非常に困難があるので、教養あるものに解るように書けば、無教養な人達にはその面白さなり諷刺なりが理解されない憂いがあり、教養少き人達の為に解り易くすれば、教養あるものからは駄洒落《だじゃれ》なぞと軽蔑されること。加うるに、我が国に於ける、かの畸形的な、自然主義文学の発達が作品に現れるユーモアを極端に軽蔑したことも、ユーモア作家の少いことの、そして、従って優れたユーモア小説の少いことの重大な原因をしているのである。現在、ユーモア小説作家としては、大泉黒石、佐々木邦の二人を除けば、皆無といっていいであろう。私の考えでは、かの夏目漱石の「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」は、立派なユーモア小説であると思っている。
 現在、世にユーモア小説として喧噪されているものの殆んど総ては、低級な言葉上の洒落とか、業々しく無理にユーモア的に歪められたる会話、故意に笑わそうと作られたるもののみである。かかるもののみがユーモア小説とされている現状に於て、我々は大いに考え直さなくてはならない。
 だが勿論、ユーモアには、言葉及び会話の自然的な可笑しさが重大な役目を持つのである。外国のユーモア小説が翻訳されても、面白さが半ばなくなるのもその為である。例えば、改造社の世界大衆文学全集で翻訳されているし、フィルムにもなって我国へ輸入されたから、読者諸君も知っているだろうが、亜米利加で驚くべき売れ行きを示しているアニタ・ルース夫人作の「殿御は金髪がお好き」というユーモア小説でも、原書
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