な途に踏み込んでしまったのは当然と思われる。
現在、少年、少女小説は、一の転換期にあるように観察される。嘗て、少年を喜ばした処の、空想力に依った科学的探険談は、現在の加速度的なテンポで進歩して止む処を知らない科学の知識によって書き改められるべき時に到達しているのである。この転換期に於ける少年文学は、科学と空想とが如何に巧みに結合するかによって解決されると思う。旧き一切のものは、新らしきものの材料となり得るであろう。もし、現在日本の文学界に最も必要な小説を求むるならば、私は第一に少年文学を挙げるに躊躇しないであろう。
少女小説に到っても、同様である。現在の少女小説作家が、同性愛と古きセンチメンタリズム以外の何物も描き得ない時に、大人の愛欲生活の世界は、思想的にも経済的にも急速に変化しつつあるのである。かかる重大な危機に臨んで、果して現在の少女小説作家は如何に考えているのか、私は大方の少女小説作家諸君に問いたい。
三、科学小説
科学小説と称ばれる種類の作品例は、日本には皆無である。外国に例を取るなら、ハッガードの探険談。ウェルズの諸作品。近頃では、テア・フォン・ハルボウ女史のメトロポリスなぞが、そうである。科学の進歩発展した今日、日本にも当然創作されなければならないものである。私は現代に於ける進歩とは、科学の発展以外の何物でもあり得ない、と断言して過言ではあるまいと思う。精神文明、芸術的諸作品、と云ったものは頽廃しつつある。少くとも科学と比較する時は、退歩していると云い得るだろう。斯《かか》る時に当って、日本に未だ曾て科学小説の現れなかったというのは、日本人が如何に科学に対して無理解であったかを示すものである。と同時に、今後に於て科学小説の領域に全き発達の余地が残されていることをも指し示すものである。
科学とは、単に機械に対する驚異というような狭い意味の言葉では、決してない。私の意見に依れば、人間の生活は、自然的倫理作用より科学的倫理作用に支配されるようになって来た傾向がある。と云うのは、科学は、必ずしも人間の要求する幸福を実現する方向にばかり進んでるのではない。人間は、自然的な人格作用として、人口の増殖と食物の増加を望む。この自然的倫理作用の命令に従って、科学が支配されるならば、一年中に米が三度取れるようになっているべきだ。然るに、科学の発見があるごと
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