書いた。
 同時に、講談は、明治十一年に表れた「牡丹燈籠」を最初として、之又続々と新聞に連載された。
 以上のごとく、通俗小説は、明治三十年頃を絶頂として未曾有の盛観を極め、更に百花撩乱たるの観あること、今日の大衆文芸の盛んなること以上であった。今日の如きは大衆文芸の重要なる一分野である少年文学は全く見る影もなく衰えている。この当時の文壇と、震災以前、大衆文芸勃興以前の文壇とを比較して見るなら、如何に文壇小説がその後、尊ばれ、以外の文学が軽蔑され、衰えたかを一目瞭然と知ることが出来るであろう。例えば少年文学にしても、その分野に踏み止るもの小説唯一人であった。
 かかる文壇小説偏重の悪傾向は、如何なる原因より発し如何にして助長されたのであろうか。
 我々は、此処で、日本に稀なる四人の文芸批評家の出現を省《かえり》みなければならない。即ち、高山樗牛、森鴎外、坪内逍遥、島村抱月が之である。当時、我国には前述の如く、通俗小説以外に文芸は皆無であった。彼等四人の評論家は口を揃えて、文学の正統性を論じ、純粋文芸の必要を力説し、主張し、堂々たる文学論を戦わしたのであった。彼等の云わんとする処は正しかった。彼等は文芸を正道に帰さんと試みた。斯《か》くして、彼等の文学論は、遂に圧倒的な勢力を文壇に占めるに到って、世の文学者、作者は、今度は悉く通俗小説を棄てて彼等の下に馳せ参じたのである。以後、通俗小説に踏み止まったものは、今まで通俗小説を書き馴れて来た老人達のみで三十年以前から書き来《きた》った儘《まま》に、漸く消えなんとする通俗文芸の命脈を保っているに過ぎなくなった。
 樗牛、鴎外、抱月、逍遥四人の優れた評論家が唱えた処は、誠に正しかった。併し、その文学論は、今度は反動的に、文壇小説偏重の傾向を培い、文芸を文壇小説一種に限らんとする努力がなされるに到った。加うるに、日本に於ける自然主義文学運動が次第に盛んとなるや、この傾向を愈々助長促進せしめ、自然主義文学者に非ざれば、作家に非ず、とまで叫ばれるに至った。その後、文芸上の風潮は人道主義派、新理智派とそのイズムの色に変化はあったが結局彼等は、文壇小説以外の通俗文芸を度外視し去り、従って通俗文芸に対する、若き作家達の関心、努力は全く無くなって了ったのであった。このようにして、震災以前の大衆文芸は、沈滞その極に達した。
 蓋《けだ》し、今
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