恋愛」の外はすべて誤った悖徳《はいとく》的行為として斥けられ、怖れられ、蔑まれ、口にすることさえ禁じられていたものである。然も現実には存在した。ただ、「同志的恋愛」「友人的恋愛」「社交的恋愛」に至っては、正しく新時代の産物に外ならない。
「愛欲小鋭」は古い型と因習を破って躍り出なくてはならぬ。何故なら、世相は十九世紀とは一変した。今まで陰にひそんでいた恋愛関係は愈々露骨に表面に現れ、今までなかったような新らしい恋愛の型を創造した。「愛欲小説」こそはそれらを反映し、時代の尖端的神経と新らしい風俗を描きだす使命に駆られているのだから。「愛欲小説」こそは、その各々の時代の風俗史であり、その時代を彩る華やかな色彩でなくてはならない。
されば、新らしい「愛欲小説」は、新らしい恋愛心理を、新らしい恋愛技巧を、新らしい型の女を、その中で創造しなくてはならないのだ。近代の「愛欲小説」は、こうした意味で純粋に都会的なものだといえる。だが、「都会的」だということは、銀座のプロムナードを歩くステッキガールを、断髪の女を、無批判に描くべしという意味ではない。勿論、ステッキガールも描かるべきであろう。だが、それをもっと現実に拉《らっ》して、もっと社会的、経済的根底から解剖して描くべきである。我々は、現在もっと現実性をもった女性を、もっと新らしい型の女性を知っている筈だ。それらを解剖して、それらに正しい方向を――決して古い型へ退却させるのではない。我々は、私が挙げた八種の恋愛を肯定しなければならないと同様にすべての新らしい型の女性を大胆に肯定しなくてはならない。――指し示すように、新らしい恋愛道徳を附加して描かねばならないのだ。
例えば、「ラ・ギャランヌ」のごときマグダレンの「女」のごとき、或はコロンタイ女史の恋愛物語「赤い恋」や「恋愛の道」等のごときを読み給え。
又、例えばアメリカ映画に現れるような女の生活は、その儘決してアメリカの女の実際上の生活ではない。映画上の創作である。併しながら、映画の上の創作は、ただちに実生活に影響する。つまりアメリカの生活を尖端的に純粋な形で映画が創作する、それが逆に実生活に反作用を起して、かかるスクーリン上の風俗が、こんどはアメリカ女性の生活の上に実際化されつつあるのである。
こうした意味で、新しい「愛欲小説」は、その時代の風俗の流行のトップに、常に立
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