第四には、「尊敬的、崇拝的恋愛」である。これはそれ自身では非常に淡い、はかないものである。著名な作者に憧憬的な気持を抱くもの、アメリカの映画俳優に手紙を送ったりする類いの恋愛心理である。これは、ある機会には、他の恋愛に転化する。その例は、映画なぞにもよくあるし、実際にもある。
第五は、「社交的恋愛」である。これは、又異った意味で軽い恋愛である。頗る遊戯的なものであり、皮相的なものではあるが、近代的という点では最もモダンな、新らしい恋愛の一種である。ダンスの相手、競馬見物の相手、音楽会や散歩の相手である。近代人が最も要求している恋愛関係で、殊にアメリカ映画なぞには幾らでも現れる。
第六は、これこそ真に新らしい恋愛であるが、もっと深い、思想的な点から生れる恋愛関係である。同じ思想の下に共に働き、共に生き、共に主義のために闘う、そうした異性間の同志的な、その意味で熱烈な恋愛である。他から見れば、甚だ堅苦しい、窮屈なようであるが、本人同士にはそれこそ自由であり、正しい恋愛なのだ。そして、これこそは、女性を男性とひとしく一人の完全な人間として認めるものなのだ。ソ※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ート・ロシアの法律とか、或は、コロンタイ女史の物語や、リベヂンスキイの「一週間」、ゴリキイの「母」なぞを読めばよく理解されるだろう。この恋愛は、先ず、ソ※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ート・ロシアの若きゼネレーションから必然的に起ったのである。私はこれを「同志的恋愛」と呼ぶ。
後の二つは、どうしてか載っていなかったのであるが――
第七は、「友人的恋愛」である。これは、私の主張する処であるが、実際あり得るし、既に、エレスブルグの「ジャンヌ・ネイの愛」にも書かれている。仮令、主義主張は異にしようとも、お互いに精神的にも肉体的にも許して行こうとする恋愛関係である。私は、これこそが本当に自由ではないかと考える。
第八は、「倦怠的恋愛」であって、これは生活に倦怠をおぼえはじめた中年期の男女の、或はデカダン的とも云うべき恋愛心理である。徳田秋声氏に於けるような、又は有閑夫人の青年学生に対するような、可成り遊戯的であって、熱烈な然も覚めれば跡かたもなくなるような場合の多い恋愛である。つまり、中年期の男女性が生活に刺戟を求める種類のものである。
こうした八種の恋愛の内、「母性的
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