向は非常に稀薄なものであって、尚、個人生活が基本をなしていた点、今日の社会的生活に個人的生活が従属させられているものとは全く異るのである。
では、現在の社会的集団生活とはどんなものか。何が基本的であるか。これこそが問題なのである。現在、人間の進歩とは、最早や思想や哲学の進歩を意味してはいない。科学的設備が如何に完備されているか、それが現在では人間の進歩と同意義をなすに到っているのを、諸君は見るだろう。科学の進歩、これこそが現在の生活の基本的なものである。今日、人間の社会的生活に於て、個人の思想感情は殆んど科学的進歩に基く、眼まぐるしい社会の変化にひきずられている。このように個人生活が全く社会生活に従属せしめられてしまっている今日、今更、十九世紀の文学によって昂奮したり、慰められたりする訳は何処にもない筈だ。
こうした、過渡的な時代に於ける文学――小説の問題が如何なる方向に、何処に解決の途を見いだすべきであろうか。そして、それより以前に、こうした期間にはぐくまれる文芸、――新らしく勃興の機運にある小説、――読者大衆に切実に要求される小説は、何んなものでなければならないだろうか。
さて、問題は此処まで来た。では、そうした文芸は?――当然、理智的で、且科学的なものでなくてはならない筈だ。「探偵小説」が近来興り来った所以、そして又、それが将来如何なる方向に進み行くべきだろうか、まさしくその理由は根本的に以上の点に求められなくてはならない、と思う。その上、テンポが早く、刺戟が多く、現今の個人的生活、――感情生活に触れないで、それの煩《わずら》わしさに捕われないように娯楽的なもの、そうした小説の要求が、近代科学への興味と結びつくとき、そこに「科学小説」なるものが叫ばれて来るのは当然の帰結である。そこで、だから「探偵小説」は、その方向への一つの前提として、そしてやがては愈々科学的方向へと進んでいくべきものとして、興り来り、流行したと見るのが至当であろうと思う。
我国を文学史的に観察しても、同じことが云える。日本では嘗て「科学小説」は「探偵小説」と並行して進んで来たのであった。先に、総論で挙げて置いたように、森田思軒をはじめ色々の人が「探偵小説」を翻訳した頃、既にスチブンソンの「宝島」、ベルヌの「海底二万哩」その他、「月世界旅行」なぞが盛んに読まれたものであった。鎖国のため
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