に、何んなに、文化的発育におくれているか判らないが、文化的進歩よりも、金儲けの方が大事だろうから、せいぜいもがくがいい、そして金を儲けて、シュークリームを食いたい、と思った時、銀座のコロンバンのようなクリームが何処にも、大阪には売っていない事を知った時、成る程と、感じるがいい。文化的進歩とは、シュークリームの甘《うま》い、拙《まず》い位のものだが、金儲けもその程度のものにすぎない。

  文化的ということ

 文化(この言葉は、もう少し古くなっているが、大阪では、丁度適当であろう)的にみて、大阪が東京に遅れているのは、誰も否定できますまい。遅れていたって一向に差支えは無いが、とにかく、昨日云ったように、甘いシュークリームが食えぬ程度の不満さはある。
 円タク、酒場が、東京へ侵入したが、これは、野蛮人がローマへ攻め入ったのと同じだと見た方がいい。少くとも「赤玉」とか「美人座」とかいう俗悪な名称は、非文化的大阪人の頭からでないと生れない。図々しくて露骨で、控え目と、礼儀とを知らない(文化とは、女郎屋を公認する代りに、洗滌器をもった女が、安ホテルにいるだけのことである。結局同じなら、そんなに、気取らんかて、ええやないか、と云えば、そうも云える。文化とは、一寸気取るだけのことなんだから――)。
 つまり、東京の女は、自分の洋装が、何うすれば板につくか、十分に研究しているが、大阪の女はあても、洋服きたら、と、人真似をするのが、文化、非文化の相違で、そして、大阪の女が東京の女を見ると、妙なつくりをして、やな、阿呆らしい、と思って家へ戻ると一寸、真似をしてみるのが、批判、無批判、自覚のちがいである。
 だから、大阪へきて「マイ・ミクスチュア」を喫おうと思うと、道頓堀か、梅田まで行かなければならぬ。私は、いつも、用意してくるが、丁度、田舎へ旅をするようなものである。海泡石のパイプなんて、大阪にはあるまい。つまり、ハイカラなものは、大阪より東京に多いということで、極つまらないことであるが、これを、つまらそうと思うと、私は、大阪生れの、文化的職業家の一人として一つ云いたいことがある。
 それは、大阪科学研究所の設立ということである。アメリカの富豪は、必ず自らの科学研究所をもっている。だが日本の富豪の金の使い道といえば、公会堂か、学校への寄附にきまっている。この金を、科学研究に使ってほし
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