以外に何物もない。大阪梅田駅前の光景、というものは、第三流都市の下品さである。豊橋とか、岡山とか――。
 粟おこし屋、安物雑貨、バナナと蜜柑としか無い果物屋、何処の三流都市よりも劣った安宿。甘酸《あまず》っぱい湯気を立てている鮨屋(此湯気は甘酸っぱくないかもしれぬが、そうしておかぬと気持が出ない)、これらの店の連続は、近代都市、経済都市の玄関ではなく、朱判を押した白衣の、団体客によってその繁栄を保持している町のステーション風景である。
 もし、私の恋人が、初めて、私を大阪に訪うてきて、この下級飲食店の羅列を見て、その町に住んでいる私を軽蔑しないなら、私は却《かえっ》て、物を軽蔑することを知らない、その恋人を軽蔑してしまうにちがい無い(物を軽蔑することのできぬ人間は、又、物を尊敬することを知らない。僕の格言)。
 だが、こういう小商人《こあきんど》はいい。彼等は、己の都市の美観よりも、金儲けに忙がしい。只怪しからんのは、阪神という阪急と共に梅田の東西に蟠居《ばんきょ》している大資本家である。巨額の積立金を持っていながら、電車は、プラットホームさえ有ればいい、というような態度である。阪神のあの建物は、いかなる建築の様式にもない、バラック的建築物にすぎない(尤も、重役は、こういう攻撃に答えて、いずれ梅田駅の移転が出来上ってから、曾根崎署よりも阪急よりも立派な物を造りまっせ、というだろう。そして、いつまで経っても造らないのが、重役だ。世界中で、凡そ日本の重役位、狡《ずる》くて図々しい奴はない。何を一番先に軽蔑していいかと、僕の恋人が聞いたら、重役と、僕は答えるだろう)。
 僕が、市長なら、電車の市内乗入と交換条件にして、大軌ビル程度の物を建てろ、と、要求するだろう。だが、まあいい。芸術に対しての軽蔑は、僕等が彼等を軽蔑することよりも、一般的なのだから、大阪人士のみの悪弊では無い。
 東、吉原両飛行家には、銀盃を下賜されるが、菊池寛の戯曲が、イギリスの一流作家より優れていても、木盃さえもらえないのが、日本だ。時々何かいい種はないかと、外国の通俗物を読むが、日本の作家の方が、ずっとうまい。その内、ノーベル賞でも、貰う人が出るだろう。そしたらははんとでも、思ってもらえばいい。世界中で、発明家と芸術家とを虐待している一等国というのは、日本だけだ。就中《なかんずく》、大阪など、その為
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