る。少し先の経済界の動きを、見る事が出来ないで、目先ばかりを見ている所に起る。
 だが――然し、私の目的は、こんな理屈ではなく大阪を歩くのであった。いつの間にか、少し暖かくなってきて、歩くにもそう苦しくなくなってきた。そして、いつの間にか、私の、この愚文の、挿絵をかいてくれた、小出楢重君が死んでしまった。私も、明日の飛行機で、戻るのであるが、最初の旅客機墜落の見出しの中に、私の名が出るかもしれない。こんな事をかいていて、それが、本当に――だが、私は、こうした迷信に対して、一向感じないから、小出君を、明日弔ってみようとおもう。

  楢重君と九里丸君

「上方」という雑誌を寄贈してもらっているが、その二月号に、九里丸君が「チンドン屋とかいて東西屋とかかなかったのは、いけない」と云っているが、私は、九里丸君の父君が、チンドンチンドンと歩いていたとかいたので「屋」とは、書いてない筈である。その中に、私の住んでいた家の下の、長屋から、八卦見と、落語家と、東西屋との名を為した三人が生れたのは、おもしろいと書いていたが、願わくば、九里丸君よ、君と私とをも、その中へ入れて、五人男にしておいてくれたら――。安堂寺町と、野麦と、――それは丁度、私の住んでいた家の、崖の真下が、九里丸君らの家のあった所で、その長屋の悪童と、私らの悪童とは、よく、石を抛合《なげあ》ったものである。今、その旧蹟には、天理教の教会が建っている。だが、そんな昔はいい。
 九里丸君は席へ出て、上手な洒落を喋《しゃべ》っているが、小出君にも、私にも、文章にユーモラスのあるのは、諸君も、御存じにちがい無い。私の信じる所によると、これは、都会人の特色で、もう少し価値を認めてもらってもいい事だと思っている。
 ナンセンスだとか、ウイットとか、ユーモアとか、それは、決して、悪人には無い事だと、私は勝手な、非研究的な断言をしてもいい。物がよく判り、裏が見え、余裕があり、何事にも、すぐむきにならずに、四方から眺めうる人にして、初めて、それが、生れてくるのである。
 小出君にしても、九里丸君にしても、そういう意味に於て大阪のいい所を代表している都会人である(都会人と、田舎人との比較に於ては断じて、私は、都会人に加担する。田舎人は、都会人に近づかなければ、本当の物は判らない。議論があれば、いつでもしていい)。然し、大阪の人々が田舎
前へ 次へ
全35ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング