一軒、空堀に一軒、天満天神裏に一軒、講釈場があった。だが、いつの間にか、大阪から、講談は無くなってしまった。
「玉川およし」「誰ヶ袖音吉」「木津勘助」「難波戦記」「岩見重太郎」「肥後駒下駄」「崇禅寺馬場」といったような、大阪講談種のものは、その内に、忘れ去られてしまうであろう。別に、惜しくも無いが講談というものは新形式に於て、もっと盛んになってもいい。
花月亭九里丸は、私の小さい時分、彼の親爺と一緒にチンドンチンドン歩いていたのを憶えている。彼等のグループは、私らの家のあった所の崖下、俗称野麦と称した所にいたらしいが、機があったら、私は彼と一緒の高座へ上って「荒木又右衛門」でも弁じてみようと思っている。
こういうことは、私は、好きらしい。だから、東京では、十年以上も、寄席へは行かぬが、大阪へくると、時々、春団治を聞きに行く。渡辺均君から紹介されて、小春団治のも聞く。愉快でもあり、上手でもある。この挿画を書いている小出楢重君は私と同じ中学であるが(少し、先輩だ)、随筆を書くと、私よりもうまい。都会人らしい、ユーモアが、快く流れていて、聡明で、謙遜で、イギリス風のエッセイとは、又別の味がある。
大阪人は、二輪加《にわか》、万歳、喜劇などを、随分生んでいるが、滑稽の才能は、確に、江戸の洒落《しゃれ》よりも、優れているとおもう。ただそれが、完全に発達をしないのは、料理と同じで、一程度以上の研究をしないからであろう。
曾我廼家五郎は、唯一の喜劇であるが、五郎の見識以外へ出ないから、新らしい時代とは没交渉で、十年後には――或は、いい喜劇が出たなら、忽ち圧倒されるだけの古臭さを含んでいる。
私が、最近「アサヒグラフ」に書いた短篇など、新らしい落語でもあり、喜劇である。「大衆文学全集」などにも、落語も、書いているが、こういう方面へは、彼等は、全然注目していないらしい。私は暇さえあると彼等を聞き見るが、彼等は吾々がこうしたことにも注意していることを全く考えていない。これが漫談などが出てくる現象の一原因で、話語《わご》の上手さに於て漫談の比で無いに拘らず、落語は日に日に古臭くなって行き、漫談はもう一転換したなら遥に落語を圧倒する丈の胚芽《はいが》を含んできた。
私は大阪のこうした人々がいい素質をもち乍《なが》ら、それをリードするいい人の無い為に、しばしば歪められてしまってい
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