ではないか? それも五十種の前菜と三十種の漬物とだけでも立派に一名物はできる。三十種のうまい漬物で、茶漬を食わせるだけでも、優に名物に成りうる。
屈強の原料をもっていて、この心懸けが出ない以上、大阪の料理人が、千人東京へ行ったって、それは、鼠の移動と同じことで、料理の発達とは無関係だ。発達と関係の無いことを、何うして称められるか? 大阪人が、東京へ行って儲けたって、何が、日本の得になる。
つまり、こういうやかましい理窟が、生じてくる。私はサー、理窟っぽすぎるが、大阪料理の為にこう云いたい。玄人よりも、料理がすきで、板前になっている素人料理の人に、しっかりやんなはれ、と云いたい。
古蹟と交通
矢野橋村が、天王寺にいた時、その二階から、塔を眺めては「天王寺は未だ、健在だなあ」と、思ったことがあった。然し、お寺は、酒場ほど面白くないから、行っても見なかった。
今日も、薄曇りの日に、寺の前まで行ったが、境内の冷漠さを見ると「ええ寺やな」とだけ感じておいて、戻ってしまった。寺だの、大臣だのは、この程度に眺めておいたらいいものであって、深く入ると失望する。
西門、石の鳥居の左側に、高橋父子の墓地案内の石が建っているが――大阪人は、少しこうした史蹟に冷淡すぎるようである。史蹟に熱心だったって、金は儲からないが、大阪城の天守を再築する位なら、もう少し、史蹟の保存と紹介とに、力を入れてもいいだろう。
高橋父子、って、何者だか、殆ど知っている人はあるまい。一心寺へ参詣して、本多忠朝の大きな墓を見たって、忠朝が、何ういう人か? お巡さんに聞いたって、お巡りさんは、養成所の試験問題に無かったから、知らん、と答えるだろう。安居の天神は、真田幸村の討死した所だが、そんな碑を建てる話も聞かない。
私は天守を立てるなら幸村最後の地へ石一つ位建ててもいいと思うが何うだろう、市長さん。尤もここには私の思い出が一つある。中学の頃だった。夕陽丘の女学校がこの丘の下へ初めて出来たが、誰かが家隆塚へ行くと一目に見えるぞと云い出した。何うも当時から女は嫌いでなかった性とみえて私も同行した。「小便したろか」と、そして一人が学校を見下ろして叫んだら、大部賛成者があった(私は確賛成しなかったと憶えている)。それから、三四遍、小便しに行くと、一日校長が「近頃本校の生徒で、夕陽丘へ行くものがある」と
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