たに違いない。またおそらくは、昼飯《ひるはん》について無言の欲求を増して行ったに違いない。なぜなら、普通の昼飯時は、もうとうに過ぎていたのだ。そして、ロンドン北郊の長い長い路が、際限もない遠望のように、つづいていた。それは、人々が、もうこの宇宙のはてに来てしまったかと思うような旅行であった。が、ふと見ればまだタヘネル公園に来たばかりだった。ロンドンは薄汚い居酒屋や、退屈な矮木林《わいぼくばやし》となって、もう果ててしまっていた。かと思うとまた、賑かな街路や、繁昌した旅館などが行手にあらわれて、応接に遑《いとま》ないくらいだった。日足のみじかい冬のたそがれが、いつの間にか襲って来ていた。しかし巴里《パリー》生れの探偵はむっつりと黙り込んだまま、ただその両眼だけは忙がしげに両側にくばっていた。一行がキャムデン町をあとにした頃おいには、巡査等はもうほとんど眠りこけていた。少くとも、ヴァランタンが突然、つっ立ち上って各々の肩をたたき、更に馭者に向って「止めろ」と叫びかけた時には、彼等は夢うつつから飛び上らんばかりにおどろいた。
 彼等は、何のためにここで下りるのだか、見当がつかなかったが、ともかくも転げるように飛び下りた。見ると、ヴァランタンは勝ち誇ったように、左側にある家の窓を指さしていた。それは金ぴかの宮殿のような構えの料理店の正面になった大きな窓だった。そこは立派な晩餐のための特別席で、『御料理《ごりょうり》』という看板が出ていた。この窓は外の窓と同様に、模様入りの曇りガラスになっていたが、氷を破ったように、ぽっかりと大きな穴が、その真中にあいていた。
「さあ諸君、とうとう手懸りがあった。[#「あった。」は底本では「あった」]あの破れた窓の家《うち》だ」[#「」」は底本では「。」]とヴァランタンは、ステッキを振り廻しながら叫んだ。
「何ですって、窓が手懸りですって?」と警部はいぶかしげに言った。「ハハア、何か役に立つ証拠でもあるんですか?」
 ヴァランタンは竹のステッキを折らんばかりに癇癪をおこした。
「証拠だって」と彼は叫んだ。「何ってこった! 証拠をさがしてやがる! そりゃあ君、何の役にも立たないってことだって二十回に一回はあるさ。だが、では、一体ほかに我々にどんなことが出来るんだね? 我々はいかにあてにならないような可能性だって、それを追求するか、さもなけりゃ、家にかえって寝るばかりだろうじゃあないか?」ヴァランタンは、転ぶように料理屋へはいって行った。一行はまもなく、ささやかな食卓で、おそい昼食《ちゅうじき》を喫した。そこでは破れ硝子の星形の穴を内側からよく見ることが出来たのだ。
「窓ガラスがこわれてるじゃないか」とヴァランタンは、勘定を済ますと、給仕に向って言った。
「左様でございます」と給仕は小銭を数えながら答えた。ヴァランタンは少なからぬ心付をそっとそこへ加えてやった。
「はい、左様でございます」と給仕は言った。
「まったくおかしな出来事なんで」
「そうか、俺達に話してくれないか」と探偵は別に何心ない好奇心を装ってたずねた。
「はあ、坊さんがお二人お見えになりまして」と給仕は言った。「二人とも近頃来たらしい外国の坊さんですが、安直なお弁当をお上りになると、一人の方《ほう》がお勘定をなさいました。そして先に出て行きました。もう一人の方《ほう》がちょうど出て行《ゆ》こうとしていました。お金をしらべてみると、勘定の三倍もございます。『ああ、もしもし、これでは多すぎます』と申しますと、坊さんは平気で『ああ、そうか』と言うんです。『へえ』と言って私が勘定の多いのをお見せしようとすると、すっかり面喰いました」
「どうしたんだね」と質問者が言った。
「さあ、私は誓ってもよいんですが、はじめたしかに四|志《シリング》と書いたのに、はっきり十四|志《シリング》となっているんです」
「なあるほど」とヴァランタンが叫んだ。そして身体《からだ》をゆるゆると動かしたが眼は異様に光っていた。「で、それから、どうしたね?」
「ところが門口の坊さんときたらすましているんです。『いや、それは失敬。余分のところはこの窓で埋合わせをつけるよ』[#「』」は底本では「」」]と言うんです。『なに窓ですって?』と聞き返しますと、『わしが、こわそうという分《わけ》だよ』と言ったかと思うと、持っていた洋傘《コウモリ》で、あの通り破ったのです」
 三人の警察官は一斉に叫び声を上げた。警部は呼吸《いき》をはずませて「では発狂者を我々は追跡してるんかな」と言った。給仕はこの馬鹿げた話を更に大袈裟に話し出した。
「私はもうまるで呆気にとられて、何とする業《すべ》も知りませんでした。その間に坊さんは表へ出て、あの角を曲って連れの坊さんのあとを追って行きました。それからバロック街の方へ足早に行きましたが、あんまり足が早いので追っかけてみたがだめでした」
「バロック街」と探偵は言った。そして勘定をおっぽり出すと、二人の怪人物を目差して突進した。
 今や彼等の旅は、トンネルのような、何のかざりもない煉瓦の道の上に来た。燈火もまばらな、いな、窓さえもろくに目につかない町々、あらゆるもの、あらゆる場所のうつろな背景から出来ているような町々だ。夕暮の薄暗《うすやみ》はようやく濃くなりそめて来た。そしてロンドンの警官達にとっては、どこをどう辿ってよいか判らないこの追跡は今までにない不安極まるものであった。ただ、とどのつまりは、ハムステッド公園のどの辺かを襲うのだろうということは警部には幾分見当がついていた。と、突然に、瓦斯があかあかと灯された張出窓が、蒼い黄昏を破って目についた。ヴァランタンはおごそかに、そこの華かな菓子売の小さい店の前に立つとふと立ち止った。しばらくはためらったが、やがて、ずかずかと店の中に這入ると、彼は澄まし切った顔付をして、十三個のチョコレート・シガーを買った。彼はたしかに何か言い出そうと構えていたのだが、その必要はなかった。
 店にいた痩せた、年増の女は、何とはなく物問いたげなヴァランタンの立派な姿に見入っていたが、彼のうしろの入口にいる警部の青色の服に気がつくと、女はよみがえったような眼つきをして言った。
「ああ、もしや、あの小包のことではございませんの? あれならもうとうに送っておきましたわ」
「えっ、小包!」とヴァランタンが鸚鵡返しに言った。
「ハア、あの坊さんの方がお忘れになった小包でございます」
「占めた」とヴァランタンは始めて正直に彼の熱心さを顔に表わして言った。「後生だから、すっかり出来事を話してくれ」
「なあに」と女は少し疑わしげに、話し出した。「たった三十分ばかり前のことですが、二人連れの坊さんがお見えになって薄荷《ペパーミント》を少しばかりお買いになって行ったのです。それからあのハムステッド公園の方へ行らしったようですが、まもなく一人の方《ほう》が引き返して来て『わしは紙包を忘れて行ったと思うが』と言うのです。で私はずい分さがしてみたのですが、どこにもございません。でその通り申しますと、いやかまわぬ。が、もし出て来たら、お気の毒だが、この宛名で送ってもらいたいと言って、番地を書いたものと、少しばかりだが、と一|志《シリング》のお金を置いておかえりになったのです。すると私が見落していたのでしょうか、あとからその方の言った通り、茶色の紙包が出て来ましたので、すぐ小包にして送っておきました。けれど、その番地は忘れてしまいました。何でもウェストミンスター区のどこかでした。おぼろにしか覚えておりませんが。でも何だか大切そうなものだったので、それでお役人がお見えになったのだろうと存じましたわ」
「そうです。それで来たのです」とヴァランタンは簡単に答えた。「ハンプステッド公園は近くですか?」
「十五分も真直に行《ゆ》けば」と女は言った。「直《じき》にその広場に出ますわ」
 ヴァランタンはその店を飛び出して走り出した。警官達もやむなくそのあとに従った。
 町筋は両側がせばまって家々の影が立ちこめていた。それで彼等が町を出外れて、空っぽな公有地に出た時には、夕映がまだ金色《こんじき》に照って明るく晴れ渡っているのに目を瞠ったのだった。太陽は黒ずんだ樹木や暗菫色《あんきんしょく》の遠影のあなたに沈みかかっていた。燃えるような緑色はもうすっかり濃くそまってその間に一つ二つ輝く星がちりばめられていた。昼間からとりのこされた万象は、夕映の化粧として、この広場の涯《はて》まで、それから「健康の谷」と呼ばれている、ハムステッド公園の端まで、金色《こんじき》に満たされていた。この辺をぶらつく休日の散策者の影もまだすっかり消えてはいなかった。まるで一対のように離れない姿が、あちらこちらのベンチにいぎたなく横わっていた。遠くのブランコに乗った少女の叫び声も時々は聞えて来た。天の栄光は人間の暗い厳粛な野生の姿を深めていた。そして、ヴァランタンはと言えば、彼のもとめるものをさがしつつ、傾斜地《スロープ》に立って谷の向うをながめていた。
 向うの遠い彼方に、幾組もの人々が、次第に散って行く中《うち》に、特に黒くくっきりと見える姿があった――二人の僧侶風な装いをした男だった。それは虫けらのように小さく見えるけれども、ヴァランタンの眼には、その中の一人が他の一人よりも更に小さいのが、はっきりとわかった。大きい方の男は背を屈《ま》げて、別に目立つふるまいもしていなかったが、ヴァランタンには、その男が六|呎《フィート》はたっぷりあることがわかった。彼は歯を喰いしばって、ステッキを性急《せっかち》にふりながら、近づいて行った。ヴァランタンが二つの黒い姿を、顕微鏡で拡《ひろが》したかのように近よって大きく見出した時に、彼は思いがけないものを発見して、思わずもギョッとした。大坊主の方が誰であったにしても、小さい方はたしかにその正体に間違いはなかった。それはハーウィッチからの上り列車に乗り合わせたエセックスから出て来た田舎僧侶だった。そいつには彼が茶色の包について警戒してやったではないか。
 さて、これでやっとすべてがはっきりとまとまりが付いて来た。ヴァランタンはその朝、エセックス州の僧侶、師父《しふ》ブラウンというのが大会に出席して外国の僧侶に見せるために青玉《サファイヤ》の這入った銀の十字架を持って出たということ、その十字架は非常に高価な品であるということを調べておいた。それがすなわち「青い宝玉入りの純銀製の品物」なのに違いない。師父ブラウンと言うのは、たしかに、あの汽車中の無邪気な男にちがいない。ヴァランタンに探知出来る事なら、フランボーも既に知ったはずだ。フランボーはどんな事でもかぎ出す男なのだから。そしてまた、フランボーが青玉《サファイヤ》入の十字架の話をきいて、それを盗み出すことを計画するのも不思議ではない。いや、それどころかフランボーが、あの洋傘《こうもり》と紙包を持った、間抜面をした僧侶に、まとわりついて行こうとするのは実に明かなことだ。あの僧侶は誰の思いのままにもなりそうに見えるのだから。おそらく北極星のところまでも引張って行《ゆ》かれるだろう。それにフランボーは名うての名優だ。僧侶に変装して、彼をハムステッド公園に引っ張り出すぐらいお茶の子サイサイだ。犯罪のすじ道は既にはっきりしている。それに探偵にとってはあの僧侶も憐れまれてならない。彼はフランボーを面憎く思った。しかし、またヴァランタンは、彼をこの成功にまで導いて来た、今までの出来事を綜合してみると、何が何だか解らなくなって来た。一たいエセックス上りの僧侶から十字架を盗むということと、料理店の壁にスープをぶっかけることと、どういう関係があるのか? 栗を密柑と呼ぶことにどういう関係があるのか? それからまた、先に金を払っておいて、窓を破《こわ》すことに何の関係があるのか? 彼は追跡の功を奏し、そのどんづまりまで来た。しかも、いずれにもせよ遂にまた迷路の端に踏み込んでしまった。今までにもし失敗したとしたら(そんなこ
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