いなかった。フランボーは、ハーウィッチで見失われてしまった。そしてもし彼が既にロンドンに巣くったとしたら、彼はウィンブルドンの公有地に住む丈の高い無宿者から、メトロポール・ホテルにいる丈の高い宴会の主人公に至るまで、あらゆる人間になりすましているに違いない。こうした盲滅法な状態において、ヴァランタンは、彼一流の目のつけどころと、またその捜査法とを持つのであった。
 こういう事件にぶつかると、彼は思い設けぬものを便りとするのであった。こういう場合、彼は、合理の道順をたどれなくなると、不合理の間道を、沈着にまた用心深くたどるのであった。普通なら真先きに行《ゆ》くべき、銀行、警察、密会所等へ這入りこむかわりに、彼はちゃんと順序を立てて、見当違いとも覚しい場所へ行《ゆ》くのであった。空家と見ると片っぱじからさぐってみたり、袋町という袋町に踏み込んだり、ゴミゴミした小路《こみち》をうかがったり、結局とんでもないところに出てしまう曲り路に這入りこんだりした。彼はこの狂気《きちがい》染みた方法をまったく論理的に弁護した。彼の言うところによると、もし我々が何等かの手掛りを持つならばそれは最も悪い道にいるのである。もし何等の手掛りをも持っていないならば、それは最もよい道にいるのだ。その訳は、もしどこかに、追跡者の眼につく様なおかしなものがあるとすれば、それは追跡される者の目についたはずだからである。人はどこからか始めない訳には行《ゆ》かない。だから人が終ったところから初めれば、それだけで大へん有利なのだ。店に上る正面の高い石段の有様や、料理屋のひっそりとした、古風な様子が、何とはなしに、探偵の稀代のロマンチックな想像をかりたて、彼をして何か仕事をはじめさせるようにしたのであった。探偵は階段を上って行った。そして窓のかたえに坐って、ミルク抜きのコーヒーを一杯註文した。
 朝も、もう半ばを過ぎていたのに、彼はまだ朝食をしたためていなかった。その辺のテーブルにちらかった朝食のあとを見ると、さすがの彼も空腹が身にしみた。で、さらに「落し卵」を註文して、コーヒーに白い砂糖を面白そうに入れながら、さてフランボーのことを一わたり考えたのである。彼はフランボーがある時は爪取り鋏で、あるときは火事にまぎれ、ある時は切手のない手紙に不足料金を払ってる間《ま》に、ある時はまたこの地球に衝突するという彗星を見る望遠鏡に人を集めて、遁走したそのやり方を考えていた。彼は自分の探偵的頭脳が、この犯人の頭脳に優るとも劣るとは考えなかった。がそれにしても自分の立場がひどく不利なことを自覚した。「犯人ってやつは独創的な芸術家だ。探偵はただ批評家であるのみだ」彼は苦笑しながら独語《ひとりご》ちた。彼はゆるゆると、彼のコーヒー茶碗を口につけ、今度は急にそれをおろした。彼は思わずも食塩を入れていたのだった。
 彼はオヤッと思ってその入物を注意した。それはたしかに砂糖入れに相違なかった。お酒が徳利に入っているのがきまり切っているように、砂糖は砂糖入れにあるのがあたりまえだ。彼はほかに砂糖入れらしいものがあるかどうかとさがしてみた。他には二つの食塩入れがあるきりだった。しかもそれには砂糖がはいっていた。食塩入れに砂糖を、砂糖入れに食塩を入れるような、風変りな趣味が、もっと他にもありはしないかと彼は料理屋の中を見まわした。が、ただ一方の白壁に何か黒い液体がはねかかって可笑しなしみをつくっている外には変ったところはなかった。彼はベルを鳴らして給仕を呼んだ。
 まだ朝のうちの事とて、髪もくしゃくしゃにし、眠たそうな眼つきをした給仕が急いで出て来た。探偵は(もともとちょっとした冗談のきらいでない彼は)まあこの砂糖をなめてみろ。これが、この店の売り出している特色なのかとたずねた。給仕はその結果|睡気《ねむけ》もさめて、口をパックリあけてただ驚くばかりだった。
「君の店じゃあ、お客様に毎朝こんな念入りな冗談をやるのかい?」とヴァランタンは訊ねた。「食塩と砂糖とを入換えておくなんて、まあどんなものかね?」
 給仕も、この真綿で首をしめるような皮肉がはっきりわかったので、どもりどもり弁解し始めた。そして、「そんな心持ちはちょっともございません、それはとんでもない間違いでございます」と言うのだった。
 彼は砂糖入れを取り上げてあらため、また食塩入れもあらためた。彼はだんだん困惑と不可解の表情をあらわし始めた。遂にたまりかねて軽い会釈をすると、あたふたと奥へ馳《か》けて行った。そして、主人を伴ってかえって来た。主人も、二つの入れ物をかわるがわるあらためたが、ひどく困惑した様子だった。
 突然給仕が一生懸命に何か言い出した。
「ああそうです、わかりました」と彼は熱心におどおどとつけ加えた。「あの二人連れの坊さんですよ」
「何だって、二人連れの坊さんだって?」
「ええそうです」と給仕は言った。「あの壁にスープをぶっかけた」
「壁にスープをぶっかけたんだって?」とヴァランタンがくり返した。こいつは妙な話しになったわいと思いながら。
「そうです。そうです」と彼はやや亢奮《こうふん》して白い壁紙を張りつめた上についている黒い飛沫《ひまつ》を指さしながら、「あの壁にぶっかけたんですよ」と言った。
 ヴァランタンは改めて、主人の説明をもとめるように彼を見た。主人はくわしく話しはじめた。
「その通りでございます。もっとも私には、これが砂糖と食塩との入れ違いに、どんな関係があるかわかりませんですが。今朝ほど早く二人連れの坊さんが、まだ店もあけるかあけない頃、お見えになりまして、スープを召し上がって行ったのです。二人とも大へんもの柔かな相当地位もおありの方のようでした。一人の方《ほう》が勘定をして、さっさと出て行《ゆ》くと、もう一人の方《かた》は、持物があるので、いつまでもまごまごしていられましたが、やっとのことで出ておいでになりました。その時のろい手つきで、まだやっと半分しか飲んでいないコーヒー茶碗をとりあげて、コーヒーをあの壁にぶっかけたのでございます。私は奥に居りましたし、店のものもあちらに居りましたので、出て来た時には、壁はもうあの通りで、店には誰も居りませんでした。大した損害でもございませんが、いまいましいので、表へ出てふんづかまえようといたしましたが、二人とも大へん足の早い奴等で、もう向うの角を曲ってカーステヤース通りに這入って行っていることだけわかりました」
 探偵は立ち上って、帽子をかぶり、ステッキを握りしめた。彼は自分をとりまく闇の中に、どうやら一道の光明を認めた。だがその光明こそ、まったく怪しげなものだった。勘定を済ますと、彼はガラス戸を邪けんにしめて、向うの通りに飛ぶように這入って行った。
 幸いなことに、彼はこうした亢奮した瞬間にも、なおかつ冷静と敏活とを彼の両眼にたたえていた。一つの店の前を過ぎたとき、何やらパット彼の頭をかすめたものがあった。彼は、踵をかえすとそれに注意した。その店は繁昌しているらしい八百屋兼果物屋で、大道に並べられた品物の上には、果物の名と売値を記した札とがたくさん立ててあった。その中で、密柑《みかん》と栗の二つの山が一番人目につきやすかったが、その栗の山には、青いチョークで達筆に『最良タンジールス産密柑二個一ペニイ』という札がさしてあった。密柑の方には『最上ブラジル産栗一合四ペンス』と書いてあった。ヴァランタン氏はこの二つの札をじっと見据えた。そして、さっきも可笑しなことに出合ったばかりだのに、またすぐここでこんなことに出合ったことを意味ありげに考えた。彼は仏頂面をして表の往還をながめている赤ら顔の主人公に、そのことを注意した。が、亭主は一言も言わずに、ぶっきらぼうにその札を置きかえた。探偵はステッキに倚りかかりながら、しきりに品物を見廻していたが、最後にこう言った。
「もしもし、まったく失礼な申し分ですが、実験心理学上観念の聯合という事から、ちょっとお訊ねしたい[#「お訊ねしたい」は底本では「お訪ねしたい」]したいことがあるんです」
 赤ら顔の亭主は、恐い顔をしてヴァランタンを見つめた。が彼はステッキを振り廻しながら愉快げにつづけた。
「ところで、御主人、日曜にロンドン見物に来た田舎者の帽子じゃああるまいし、青物屋の正札が入れ違ってるなあ、一体どうした訳なんです? でなけりゃ、私にもはっきりしている訳ではないが、この密柑と栗の関係は、何か二人連れの坊さん、大坊主に小坊主の関係と神秘的な関係でもあるんですかな?」
 商人の眼玉は、蝸牛《なめくじ》の眼玉のように飛び出した。彼はまったく、この見知らぬ男に今にも飛びかかりそうに見えた。が、遂に怒りながら吃り出した。「お前がどんな関係があるのか知らないが、もし知り合いの間なら、言ってくれ、うちの林檎をもう一ぺんひっくりかえすような事があれば、坊主であろうと何であろうと、あたまをたたき割ってやるからって」
「へへえ? そいじゃあ奴等は君んとこの林檎をひっくりかえしたのかね?」と探偵は、同情してこう言った。
「あいつらの一人がやったのさ」と亭主はポッポッと湯気を立てながら「何しろ通《とおり》一ぱいぶちまけちゃったんだ。阿呆め、自分で拾い集めないで行ったら、ふん捉《つか》まえてやるところだった」
「その坊主達はどっちの方角へ行ったかね?」
「あの二つ目の通を左へ曲って、広場を突《つっ》きって行ったらしいよ」と亭主はすぐ答えた。
「いや、ありがとう」ヴァランタンは、言葉とともに妖精のように姿を消した。第二の広場の片側で巡査を見付けると、彼は早速訊ねた。「巡査君、重大事件なんだが、君、鍔広帽を冠った二人連れの坊さんを見かけなかったか?」
「ハア、見ましたです」巡査はのろのろと笑いながら言った「ひとりの方《ほう》は大分酔ってるようでした。往来の真中で、ハテどっちの方角へ行ったものかって言うような腰つきをしましてな――」
「どっちの道へ行った?」ヴァランタンはつっこんだ。
「あの黄色い乗合に乗って」と巡査は答えた。
「あれはハンプステット行《ゆ》きです」
 ヴァランタンは警察手帳を示して早口に言った。
「では、至急君の同僚を二人呼んでくれたまえ。僕と一緒に追跡してもらうんだ」
 彼は、伝染病のようにすごい勢力をもって向う側に突っ切った。で、鈍間《のろま》な巡査も思わず身軽について行った。一分半ばかりで、このフランスの探偵は、イギリスの警部と私服の巡査とを仲間に加えた。
「それで」と警部は重大そうな顔付きに微笑を浮べて言った。「事件は――」
 ヴァランタンはすばやくステッキで指さした。
「あの乗合馬車の二階に乗ってから、お話ししよう」もう彼は激しい往来を縫ってす早く突進していた。三人が息をはずませて黄色い乗合の階上席についた時、警部は「タクシイなら十倍も早いでしょうに」と言った。
「その通り」ヴァランタンは落付いて言った。
「行先《ゆきさき》がはっきりしていればね」
「へえ、それでは我々は一体どっちへ行《ゆ》くんですか?」と驚きの目をみはって巡査がたずねた。
 ヴァランタンはむずかしい顔をしながら、しばらく巻煙草をふかしていたが、それを口から放すと、彼は言った。「君がある人のすることを知っているなら、前に行けばいいんだ。また何をするか当ててみようというんなら、その人のあとについて行くんだ。その人が道を外《そ》れたら、自分もそれる。止ったら止るんだ。その人のゆっくり行く通り、君もゆっくり行くんだ。そうすれば、君は、その人の見るものを君も見るし、その人のすることを君もすることになるんだ。問題は、何か奇妙なものにしっかりと目をつけるにあるんだ」
「一たい、どんな奇妙なことなんです?」と警部がたずねた。
「奇妙なものなら何でもいいんだ」とヴァランタンは答えると頑固に口を噤《つぐ》んでしまった。
 黄色い乗合馬車は、ゆっくりと、北部の道路を何時間も走り歩いた。大探偵はもう何にも説明しなかったし、その助手達は自分の役目について無言の疑惑を増して行っ
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