だ。高の知れた俺一人位のことを、何、喋るもんか――そうだ。女に逢えるぞ。褒美が出るとしたら、あいつ、女房にしてこまそ)
 右源太は、脣にも頬にも笑を浮べていた。

    三十三

(世の中って、運一つのものだ。兄貴の運などは、生れた時から曲っていて、とうとう死んじまったが、俺の運は、兄貴の死んだ時から開けてきたんだ。これで、贋首が判ったって、天下泰平。運勢の御守札は、こちらから出まーあすってんだ)
 右源太は、止めようとしても、出てくる笑を頬に、脣に出しながら
(これで、あの女も、自分のものになる。いずれ御褒美があろうし――お袋に、見せてやりてえや」
 右源太は、賑やかな、両国河岸を、水茶屋の前へきた。往来の人々が、皆自分の方を見て
(あれが、相馬大作を召捕ったお役人だぜ)
 と、囁いたり、噂したりしているように思えた。そして、全く、水茶屋の行燈の灯に照らし出された時、水茶屋の女達は
「あら、女狩様」
 と、叫んで、客の無い者は、走り出してくるし、客のある女は、一斉にこちらを向いた。右源太は大きい女の定紋を書いた衝立の蔭へ坐って
「暫く」
 お歌が、外の客に、愛想の言葉を投げかけておいて
「ほんに、お久し振り」
 と、いって、側へ腰かけて、香油の匂を漂わして
「妾まで嬉しゅうて――何んしろ、大したお手柄で御座んして」
 と、媚を見せた。職人らしい一人が
「えへんってんだ」
 と、大きい声を出した。そして
「おい、勘定だ」
 と叫んで、銭を抛出して、外へ出ようとして
「おもしろくもねえや、相馬大作がいなくなっちまって」
「全く、お世話様だっ」
 お歌が、ちらっと、振向いて
「嫌な奴」
 と、いった。
「棄ておけ、棄ておけ。わしの朋輩共でさえ、よく申さん奴がいる」
「でも、本当に、大作様は、江戸中の人気者で御座んしたのに――」
 客の無い女が、隅に立って
「お歌さん、いくら、絞るだろうね」
「さあ、御褒美に脚を出して、首を縊《くく》って舌を出してさ」
「本当に、いやな小役人風情が――」
「召捕った顔をしてさ。何んでも、ぶるぶる顫えながら、ついて行ったって、いうじゃないの」
 お歌は、右源太に
「今夜、お店を仕舞ってから――」
 と、囁いた。

    三十四

「お歌、さっきのお侍のお話をしたかえ」
 と、婆さんが
「大層な、お手柄だそうで」
 と、笑いながら、二人の前へ立った。
「ほんに、胴忘《どうわす》れをしておりまして――先刻二人連れのお侍衆が、お見えになりまして、是非お目にかかりたいと――」
「何んな? 何と申す」
「昵懇《じっこん》な方らしゅう、それでお邸をお教え申しておきましたが――」
「そうか、手柄話でも、聞きたいのであろうかな」
「左様で、御座んしょ」
 水茶屋の前へ、酔った侍が四人脚を縺《もつ》れさせて寄ってきた。
「よい、御機嫌で――」
 と、女達は、寄り添うて、中へ案内をしてきた。士は、[#「士は、」の後は、底本では改行1字下げ]お歌の側を通りかかって
「お歌」
 と、叫んで、その側の右源太を見ると
「やややや」
 といった。そして後ろへ退《しさ》りながら
「これは、これは、女狩右源太殿」
 と、頭を下げた。右源太は、一寸、眉を険しくしたが
「いや、お揃いで――」
 お歌が立って
「さ、あちらの、すいた所へ、御案内仕りましょう」
「いや、すいた所は、ここにある」
 一人が、お歌の手をとって、そして
「片手に大作、片手にお歌、果報者だよ、源太さん。うわっ、こ奴」
 と、叫んで、お歌を、抱きしめようとした。お歌が、逃げたので
「お羨ましいことで御座る、右源太殿」
 右源太の左右へ、腰掛を響かせて、坐ると
「手前へ、あやかりとう御座るが――お流れさえ。――」
 と、頭を下げて、両手を出した。
「ここは、水茶屋で、酒が無いゆえ、桜湯を」
「け、けちなことを申されずに、ここを、こう参ると、亀清と申す割烹店が御座る。ほ、両国へきて、亀清を知らん仁でもあるまい。それでは、お歌が惚れぬ。お歌、案内せい、案内、亀清へ」
 士は、酔っていた。右源太は、処置に困って、お歌を見ると、お歌は、眉をひそめながら、手で、追出せと、合図をした。
(連れ立って出たなら、亀清へ、無理矢理にも、この勢いなら、連れて行くであろうが、金が――あるか? 無いか?)
 右源太は、お歌の前で、みすぼらしい懐を見せたくはなかった。だが、足りない物は、何うしようも無かった。
「とにかく、ここを出て――」
 と、立上ると、一人が、袖を押えて
「さあ、亀清へ――さあ、亀清へ、犬も歩けば、棒に当ると申して、当時、江戸第一の出世男――」
 と、いって、往来へ、大声で
「これが、相馬大作を召捕った、女狩右源太じゃ。近うよって拝見せい。面は拙うても、運慶の作、そうら笑った。そら歩いた」
 往来の人々が、笑って、集ってきた。
「その上、大の色男で、お歌がぞっこん惚れている」
 女狩は人々の間に挟まれて、赤くなっていた。お歌がそっと後から
「これを――」
 と、いって、財布を渡した。右源太は、握ってみて
(しめた)
 と思うと同時に
(本当に惚れている)
 と、心の底から嬉しさが上ってきた。そして、財布の重みで、大丈夫だと判ると
「参ろう。ここが迷惑致す。参ろう」
 と、人々を振切るようにして、外へ出た。一人が
「大作逃がすな」
 と、いって、右源太の袖をつかまえて、よろめきながら、ついて行った。

    三十五

「相馬大作の、引廻しだとよう」
 一人が、走ってきて、こう髪結床の中の人々へ、怒鳴って駈出してしまうと同時に、一人が、将棋の駒を掴んだまま、往来へ出て
「本当だ、走ってくらあ」
 と、叫んだ。そして、叫び終るか、終らぬかに、子供が、男が、老人が走ってきた。
「引廻しだ」
「引廻しだ」
 家の中から駈出してくるし、女が軒下へ立って眺めるし、髪を結っていた一人が
「親方よしてくれ。後でくらあ」
 と、いって、半|結《ゆい》のまま、走って行ってしまった。
「大作さんのお引廻しかえ、本当に――」
「そうだろう。近ごろ、泥棒は無《ね》えし、火つけは無えし、引廻しなら、あの位のもんだ」
「もう一人、相馬大作が現れて、引廻しへ斬込むかも知れねえぜ」
「そうは行くめえが、一騒ぎ持ちあがるかもしれん。何んしろ、大作の師匠の平山ってのが、変ってるからのう」
「大作の門人も、黙っちゃいめえ」
 人々は、走りながら、久しく見ない引廻しを見に走った。大通りは人の垣であった。どの町角も、町角も、一杯の人であった。屋根へ登っている人もあったし、二階から、天水桶の上から、石の上に、柱に縋りついて――
「見えた」
 一人が叫ぶと、人々は背延びして、往来の真中へ雪崩れ出して、足軽に叱られたり――槍が、陽にきらきらしていたし、馬上の士の陣笠、罪状板が見えてきた。
「何んしろ、津軽の殿様を一人で、二人まで殺したって人だから、強いねえ。あの縄位ぶつと、力を込めりゃ切れるんだって」
「俺なんざ、毎晩女を殺してらあ」
「野郎、おかしなことを吐かすな。来たっ、来たっ」
 大作は、馬上で、茶の紬の袷をきて、髪を結び、髭を剃って、少し蒼白くなった顔をして、微笑していた。
(士は、死所を選ばねばならん。生前に志を行い、死を以て又志を行う――見物共は、物珍らしさに群れてきているが、わしを見た時、一点心に打たれる所があろう。それでいい。良心のある人間ならば、いつか、一度は、わしの行いに打たれるにちがい無い。わしは、死ぬが、わしの志は、永久に人々の間に、人間の心の何っかに残っているにちがい無い。志を得て、畳の上で死ぬよりも、こうした悲惨な最期を遂げれば、遂げるほど、わしの志は報いられるのだ。わしは、師に及びもつかぬ下根であるが、只一つ、死所を得た。もし、後世に至ったなら、尚、美化されて、人々の間に残されるであろう)
 大作は、明るい心で、立並んだ人々に、微笑を見せながら、
(わしを見た人々は、必ず、自分の、当今の懦弱《だじゃく》な、贅沢な振舞を省みるであろう。寝静まって、良心の冴えてくる時、不義に虐げられた時――)
 大作は、自分の眼の前に、高く聳えている槍の穂先を、快く眺めている。
(心残り無く死ねる、戦場で死ぬよりも、この方が、大丈夫として立派だ)
 人の出来ないことをして、そうして、こういう死をもって、なお世間へ、自分を記憶させることの出来る自分を、快く感じながら、大作は、馬上に揺られて行った。
「この仁が、大作殿か」
 編笠の侍が人混みの中で、笠を傾けて、じっと、顔を見ていたが
「成る程、何《ど》こか、父に似たところがあるのう」
 と、一人の連れに囁いた。
「何こか、横顔に――」
「引廻しの日に、敵の居所をつきとめたのも、何かの因縁であろう」
 大作の馬は、一行は行きすぎた。人々は、二人の立っているところを、雪崩れ出した。
「行こう」
 二人は、人混みの中を抜けて、急いで歩き出した。

    三十六

 一人が、女狩右源太の家の前に立って
「物|申《も》う」
 といった。右源太は、褒美の金を、女の前へひろげて
「何んしろ、大作って奴は、平の将門《まさかど》みたいに、七人も影武者があって――」
「物申う」
 お歌が
「あい」
 と、返事して
「誰方かがお越しに」
「金は仕舞っておくがいい」
「ええ」
 右源太が、立って行って
「誰方」
 と、聞いた。
「女狩殿、御在宿で御座ろうか、ちと、御意を得たく」
「拙者が、右源太で御座るが」
 入口を入った武士が、右源太を見て
「始めて御意を得申す。拙者は、御代田仁平」
 といって、表へ
「弟」
 と、振向いた。齢の若いのが入ってきた。険しい眼をして、右源太を見た。兄が
「御来客の模様なら、往来にて」
「いやいや、どうか、お上り下されい。拙者一人に、女一人」
 右源太は
(何うだ。こんな別嬪をもっている士は、ちょっとあるまい)
 と、思いながら、先に立って
「こちらへ」
 と、いった。二人は、刀をもって、右源太の前へ坐って
「御内儀で御座るか」
「いいえ、妾は、ちょっと、お遊びに――」
「ま、家内同然の」
「いやな――」
 と、お歌は女狩を睨んだ。
「時に、右源太殿、相馬大作をお召捕りなされたげで――」
「いや、いやいや、それほどでも――」
「去年、奥州へ、大作を追って行かれたのも御貴殿で」
「左様」
「その節、もう一人の大作をお討取りに――」
「いや、大作は、三人も、四人も御座って」
「その奥州白沢の宿外れにて討たれた者は、御代田仁右衛門とて、拙者ら兄弟の父で御座る」
「何?」
 弟が、素早く立って、右源太の横へ廻った。そして
「立てっ、尋常に、勝負せい」
 兄は、片膝立てて、刀をもって
「尋ねた甲斐あって――よくも、父を欺し討とし、あまつさえ、お上を欺き奉ったな。刀をとれ。――女狩、立てっ」
 右源太は、蒼白になって、顫えていた。
「父の敵、勝負だっ」
 お歌は、膝の前の金を、素早くとって、よろめきながら立上った。
「女。邪魔だっ、外へ出ろっ」
 お歌が、壁へ手を当てて、よろめきつつ、――だが、金だけは、片手に握って、走って出ようとした。
「お歌」
 お歌は、振向かなかった。
「お歌っ」
 右源太が、立上って、お歌を追おうとした。弟が、その腰を蹴った。右源太は、壁へどんとぶっつかって
「無法なっ」
 と、怒鳴った。近所の人々が、走って出てきて、お歌へ
「おやっ」
「何か、騒動が――」
「ええ、敵討。右源太は、悪人で、あの人に斬られます」
 右源太は、微かに、それを聞いて
「歌っ、何を申す」
「うぬっ、刀を持てっ」
「いや、何卒、全く人違いにて申訳御座らん。大作は、本物と、弟子と、影武者と――」
「うるさい、武士らしく、勝負せい」
「兄上。長屋の人の騒がぬうちに」
「歌っ。おのれ金を持逃げして、全く、人ちがい――」
「父の怨み、大作殿の怨みを晴らす、弟」
 二人は、刀を振上げた。
「ちがう、人ちがいだ。女狩右源太も、二人あるっ。三人あるっ。わしはちがう
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