、広々とした空が見える所まで出ると、何んの物音も聞えないし、人の走りもなかった。
(今夜は、宵から、死ぬことばかり考えていたが――こうして、江戸を見ると、人間、こんな面白い世の中に、生きてなけりゃ損だ。俺は、ここ一二年、侍の化物に憑《つ》かれていたんだろ。下郎の癖に、仇討などと――そして、お仕舞いまで、下郎扱いにされて――大損したぞ、畜生。――それでも、醒めてよかった。馬鹿馬鹿しい。仇討をしたところで、又、俺は、下積みにされてしまうか、それとも下郎なんか入っていては恥だと、あの安兵衛など、斬りやがるかも知れない――悪い夢を見ていたものだ。人を恨もうよりも、下郎の分際で、士の仲へ入ろうとしたのがいけなかったんだ。下郎の手まで、借りたといわれちゃ、恥だからな。そうなんだろう。俺に、こんなに、小粒をくれるのは、逃げろって、謎だったのかも知れねえ――いい景色だ。これで、からっと晴れりゃ、いいお正月がくるんだ。仇討よりゃ、お正月の方が、余っぽど景気がいいや)
 吉右衛門は、暫く、橋に凭れて、ぼんやりと、考え込んでいた。
(もう、そろそろ早立ちの旅人の通る時分だろう)
 吉右衛門は、橋番所から怪しまれないように、人通りのあるのを、待とうと思って、人家の軒下へ入ってしまった。

    四

「爺《とっ》つぁん、寒いの」
 吉右衛門は、煮売屋へ入った。薄暗い土間に立って、竈《かまど》の火に、顔を照らしている老人が
「これは、お寒いのに、お早くから」
「何んでもいいから、一本つけて――」
 吉右衛門は、鍋の下から、運び出してきた火に手をかざしてから、濡れた草鞋を、脱いで、店の間へ上った。
「奴さん、お一人かえ」
「うむ――葛西まで、お使の、戻りだ」
「この雪にのう」
 吉右衛門は、鰊と、味噌汁と、酒とを前にして
(うまい――ああうまい。久し振りで、しみじみと、打解けて味わえる。酒を飲んでいても仇討。飯を食っていても仇討――一体、仇討をして、何んに成るんだ。士ならとにかく、こんな下郎が?――人の真似をした、猿の物真似だ、と、そういわれたって仕方がない。実際、物の役にも、何んにも立たないんだから――附人に斬られてしまうか、吉良の小者と、囓《かじ》りっこをして、鼻の頭でも、食いちぎられるか?――下郎は、下郎らしく――)
 快く、胃へ通って、血の中へめぐっている酒を、微笑して、首を傾けて

前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング