余りに、幼い時分の為であったのであろう。

    四

 私の父は、私が生れたので、必死に働き出したらしく、私が小学へ入った年か、幼稚園の後期時分か、同じ町の西方、三十七番屋敷へ移った。ここも今、すっかり、家が新らしくなってしまったが、店の間が三畳、次が二畳と押入、奥が二畳半である。ここで、中学を終えた。
 幼稚園生活は、然し、子供の事故《ことゆえ》、すぐに慣れたらしいが、病弱の私は、いつも、薄氏の所へ通っていた。処方箋に「△」の印がついていて、父は、これを指して
「宗一、これは無料という印やで、皆、孝次さんの御蔭や」
 と、父も、孝次の秀才は、認めていたらしく、母の方の事は、よく悪口云うが、孝次氏にだけは感心していた。
 学校は、桃園尋常小学校と云って、内安堂寺町の高地と、空堀筋の高地との間に挟まれている窪地にあったが、この辺一帯を「のばく」と称して、貧民窟であった。だから、中学へ入った人が少いし、私と、首席を争った「錦」という子は、例の団子屋の息子であるし、もう一人の藤原は、砲兵工廠の職工の息子であった。私が、中学まで行くと聞いた時、二人は
「植村はええな」
 と、羨んだのを、未だに、まざまざと憶えている。その当時の私は、二人に対して、得意であったが、いつも、この三人で、首席を争っていた事を思出すと、少し、感傷的になってくる。
 この「のばく」――私の家のうしろが、丁度「のばく」と、崖になっている高見であるが、この下に、今大阪の落語界で、大立者と称されている九里丸が住んでいた。
 九里丸の話によると、彼の四軒長屋は、出世長屋で、四軒とも、相当の人物になったと、その名まで挙げていたが、私は、関係がないので、九里丸の外に知らない。
 この人の父が、大阪中を風靡《ふうび》した、東西屋(チンドン屋)の元祖九里丸で、大阪奇人伝中の一人である。夜になると、囃子《はやし》の稽古をするので、私達子供は
「のばくの狸が、又囃しとうる」
 と、云っていた。この長屋と、一度、上下で、石合戦をした事があった。私は、もう尋常二三年位で、誰にも劣らぬ乱暴者になっていたので、石を投げていたが、その一つ――誰のかが、九里丸長屋の赤ん坊に当ったため、親父が出てきたので、一目散に逃げ出し、家の中へかくれていた事があった。
 一つ、北の通りが、十二軒町と云って、役人の邸跡であるが、そのつづきの神崎町の腕白共を対手に、竹竿をもち出して、大喧嘩をしたのも、その時分らしい。私は、中学でもう一度、大乱闘をやっているが、それは後の事にする。

    五

 小学では、秀才で、大抵一位か、二位であった。今、何うして、こんなに字が拙くなったのか知らぬが、御手本を見て、真似する字は、私が第一で、丁度、三年生の時、書の上手なのを、雨天運動場へ掲げるようになったが、真先に、私のが出た。
 父は、寺子屋しか知らぬから、字が上手だと、何より喜んで、この時も、すぐ、薄氏の所へ自慢に行ったらしい。
 所がである、同じ三年の時、菅原道真の事が、読本に出ていた。その中に「遷《うつ》され」という字があったが、先生から、聞かれても、誰も答えられない。
「植村」
 と、最後の指名が、いつもの如く私へ来た。
「流されです」
 と、答えると
「意味は同じだが、うつされと読む」
 と、先生が云った。それまで、級中第一の自負心をもっていた私は、この間違いが、叩きのめされたように堪えた。それ以来、いかなる場合にも、知っている、という合図の為に揚げる手を、決して揚げなくなってしまった。
 幼稚園時代の極端な、はにかみ屋が、又復活して、これは、その後――今日も猶、つづいている。座談会などへ出ても、自分から中々口を開かないのは、その時からの習慣が、中学を通じて、天性のようになってしまったからである。
 この打撃は、可成りひどかったらしく、学校が嫌になって、四年の時には、四番目か、五番目へ落ちた。
 だが、父は貧乏の中から、学校だけは、大学までやると、必死になってくれたので、何の不愉快さも残っていないし、不自由さも感じなかった。
 然し、家庭での生活は、今、考えると、みじめ極まるものであった。

    六

 私は、玩具をもった記憶がない、と云ったが、殆ど、間食をした記憶もなかった。いくつ位の時であろうか、家が近いので、学校から、一時間の昼飯時には、帰ってきて食べる事にしていた。遊びたい時分なので、急いで、御飯を食べ終ると、母に
「焦げあるか」
 と、飯の焦げた所の残っているのを、催促する。
「ある」
「とっといてや」
 と、云って、走って、学校へ行ってしまうが、この焦げた飯を握ったのが、私の間食であった。それから、母は、釜や、櫃《ひつ》の洗った残りの飯粒を、笊《ざる》へ入れて、天日に干しておいてくれて、これ
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