富家が相当にある。この父の所へ、母が
「大野の植村の息子」
 というので、嫁に来たのであった。来てみると、店先には「ぱっち」(股引の事)二三足と、汚い古着が、四五枚釣ってあっただけだったので、びっくりした。と、よく話していたが、これが、そもそも貧乏の始めである。
 母の家は、大和の国の安堵村の下長で、藍と、木綿とを商にしていたらしい。幼少の時、父が死んで、その弟が、時代の衰勢と、自分の怠惰とから、すっかり、身代をつぶしてしまったらしく、後に、筆墨行商人になって、私の家へ、よく来たが、くると、母に叱られて、よわっていた。
 池のある大きい、広い山があったし、馬がいつも、五六頭店先にいたと、母が話しているから、相当の商家であったのであろう。

    三

 この母に、一人の弟があった。養子に行って、新井姓を名乗り、孝次という名であったが、これが秀才で、大阪谷町の薄《すすき》病院の院長、大阪府会議長の薄恕一氏と、親友であり、早世して、非常に惜しまれたが、その為、この薄氏と親しくなり、殆《ほとん》ど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。
 私の宗一という名は、鹿児島の、貴島清(西南役の雄将)の息子さんで、名は忘れたが、軍医の人がつけたもので、私の弟の清二というのは、この薄恕一氏が、名づけ親である。
 私は、父が四十の時に生れた子で、母は嫁入してから、八年目である。もう無いものと、諦めていたのが、出来たから、ひどく喜んだらしいが、病弱で、育つか、育たぬか分らなかったらしい。だから、いつも家の中に、じっとしていて、初めて、幼稚園へ行った時など、一人、運動場の隅に立っていて、何んと云っても、人の中へ入らず、母は、心配して、泣いたそうであるが、それが、こういう風に、図々しくなるのだから、おもしろいものである。
 生れた所は、大阪市南区内安堂寺町二丁目であるが、今、そこは、電車路になっている。谷町六丁目交叉点の、内安堂寺町側、谷町館の東側、丁度、乗客が電車を待つ為に立つ所が、そうであった。当時の谷町筋は、鎌倉時代から、紀州、河内へ行く、唯一の道で、今の天満橋、昔の渡辺橋から、一直線に、天王寺の前へ出て、丁度、右手に海を見晴らし、左手に小高く森のつづいていた道であるが、極めて細いものであった。
 城に近いし、唯一のいい路なので、砲兵隊が大砲を率いて、よく通ったが、私の家の上げ店が、その車輪にかかって、破られたのを、覚えている。
 この生れた家は、私の記憶にして、誤り無くんば、三間あった。店と、次と、奥と――そして、道具として、長火鉢が一つあった。私が立てるか、立てぬかの時分、この長火鉢の抽出しを開けると、油虫が、うじゃうじゃと走り廻っていたのだ。
(何んだろう)
 と、別に、恐くもなく、不思議がったのが、今でも、はっきりと残っている。店の品物なんぞは、有ったか、無かったか、少しも憶えていないが、汚くて、暗い家であった印象は、本当であろう。
 この家に出入していた人で「鹿やん」というのが、その後も、よく母を慰めにきて、私の為に土産物などをくれたらしい。母が、私の幼時の唯一の話として、いつでも聞かせたのに――この鹿やんが、住吉神社へ詣って、土で彩色を施した馬を買ってきてくれた。私は、幼少時代、玩具という物を持った覚えがないが、母も、この馬は嬉しかったらしい。それを私は、持ち上げると共に
「四王天、馬とって抛った」
 と、叫んで、土間へ投出したのだそうである。土の馬故、粉々で、鹿やんは
「ああ」
 と、云ったまま、ひどく悄気《しょげ》たというが、この事は、幼稚園以前であるから、私の大衆文学智識というものは、相当に古くから、その淵源をもっている。
 これを裏書するもう一つの事実は、東京の新粉細工《しんこざいく》、大阪団子細工、あれの細工しないで、板へ並べただけのものが、――今も、何んというか知らぬが――欲しくて仕方がないが、名がわからない。いろいろと考えて
「義経の八艘飛《はっそうと》びおくれ」
 と、団子屋に云った。
「八艘飛びあれへん」
 と、素気なく云われて、幼稚園で、友達の中へも入れぬ臆病な私が、大道の真中で、何んなに立ちすくんだか、それから、暫《しばら》く、団子は買わなかった。
 この、四王天や、八艘飛びは、鹿やんが教えてくれたものらしい。私の為に、絵本や、立版子《たてばんこ》を買ってきてくれたのは、ことごとくこの人であるから、何一つ、その話していてくれた事も思出せないが、父も、母も、そんな事は、全く知らぬのであるから、私の今日は、鹿やんのお蔭である。この鹿やんは、それから後、ずっと来ないようになったが、小学校時代に、その死を聞いた。何の感じも起こらなかった。鹿やんへの記憶が、
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