たくて堪らないので、父へ、下宿の安い所を捜すつもりだし、南も行ったし、藤堂も行ったし、早く行って、準備しておく必要があるという口実であった。
南も、藤堂も知らぬが、六十になっても死にそうには無いし、弟が十歳になって、これも、学校の成績はいいし
「貧乏人でも、倅の教育だけは、人に負けまへん」
と、二十年近く同じ町内に住んでいて、古顔になった父は、倅の自慢が、何よりも好きであった。文字通り、食を割《さ》いても、学資の方へ廻してくれた。
今春陽会の会員である洋画家藤堂杢三郎が、早くから上京して、駒込蓬莱町の下宿にいた。郁文館中学の左隣りで、これも、第二何んとか館という名である。久米氏の近くのは月二十円で、高級であるが、ここへくると月十六円で、二十五円学資をもらうと、十分にやって行けた。
この下宿へ落ちついたが、下宿から、中学の庭を透して見える、小汚い生垣の、傾いたような家が、夏目漱石氏の旧居で「猫」は、あすこで書いたんだよ、と、藤堂が説明してくれた。
汚い下宿であったが、その旧居が見えるのが、誇りのような気がして、そこにいた。
そして、いかに、二十五円より安くて生活すべきかを、藤堂とも話をした。
「飯が焚けるか」
「焚ける」
「上手か」
「上手だ」
と、いうような会話から、間借りをして、自炊をするのが安い、という事になって、私は、使命を果し、大阪へ戻った。この上京中に、徳子さんへ、手紙を出したので、確証が握られたのである。
この上京した夜、勝手の知った本郷へ、一人で出てきた所が、今の燕楽軒の前で、書生と、職人の喧嘩があった。
「何っ」
と、叫ぶと、職人が、諸肌《もろはだ》脱いだので、大阪の喧嘩しか知らぬ私は
(これは危険だ、東京で喧嘩するもんではない)
と、感じて、以後、手出しした事はない。年に一度位女房へ出すが、これは危険でない。
大阪では、子供時分から、よく喧嘩をするし、東横堀の木材の蔭に「十銭」と称する立淫売が出没するので、竹をもって、木材の間を掻き廻しに行ったり、松の亭の下足をとる時、うしろから、馬鹿力で押す奴があるので、振向きざま、撲《なぐ》ったり――相当に暴れたが、諸肌脱ぐ、勢を見ると、善良な、強がりだけの大阪者は、一度に、おじけをふるってしまった。
この上京から、大阪へ戻ると、いつの間にか、徳子一件を、雪ちゃんが知っていて、大いにすね
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