が儲かるし、法科は恩給がつくし、医科は
「薄さんに頼んだるさかい」
 と、この三つにきめてしまっていて
「高等学校は岡山がええ、わしも、もうこの齢やさかい、お前の高等学校を出るのを見て死にたい。高等学校だけは、やっといてやる」
 父が四十歳の齢の子だから、二十で中学を出ると、父の齢は六十、高等学校卒業までしか生きていられないと考えたのも尤もである。だが、何んと今年私が四十三、父が八十三になって、父は、未だかくしゃくとしているのに、私がこの体なのだから、私としては、この父の死ぬ前に、私を死なしたくないと考えている。それに、この編輯者め――悪魔である。父が見たら、何んなにびっくりするであろうか。月収六七十円の古着屋の、六十歳の親爺が、月二十五円ずつを倅の為に割《さ》いてくれたのである。

    十八

 父が八十三歳にもなって、私が「死までを語る」を書いたのを読みでもしたら
「宗一、ほんまか」
 と、それだけで、三年位齢をとるであろうが、絶対に読みっこは無いし、近所の人も、恐らく
「宗ちゃん、えらい事書いてはりまっせ、ほんとですか」
 と、父に聞く事も無いであろう。一心に、金、金、金、金儲け金儲け、とだけ念じている人達の集っている町であるから、こんな事が平気で書けるが、これだけ、印刷文明が普及されていて、猶かくの如き、私の出生町内である。二十余年の昔
「文科へ行く」
 とでも、云おうものなら
「文科て、文士か」
 と、それこそ、何う叱られるか、わからない。私は、早大文科と決心していたが、一言も、この事は喋らなかった。だが、卒業すると、何うしても、次の学校へ行かなくてはならぬし、父の決心が悲壮であるから
「岡山へ行って法科を受ける」
 と、云っていた。
「弁護士はあかん、官吏がええ、恩給がつく」
 と、貧乏で、六十歳になっても、古着を背負って、電車の無い頃の大阪の隅から、郊外の遠くへまでも歩かなくてはならぬ父にとって、恩給という事が、何んなに有難く見えたか!
「しっかりやれ、人間も、恩給もらうようになったら楽や」
 国を出奔してきてから、最高収入六七十円の父は、四十年間を、働きづめに働いてきて、猶働かなくては暮らせないのである。
 だから、恩給恩給、と云うが、何んと私は、岡山へ行って、試験の日、半日、旭川で、ボートを漕《こ》いでいたのである。
 最初の日に、数学が出なか
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