て、台所へ出て、菜を洗う、というようなものである。
この店にいる間に、着物に対しての智識は、相当にできた。私が、早稲田へ行っている頃まで、着物は、今のようにいろいろの名がなかった。縮緬《ちりめん》、七子《ななこ》、市楽、薩摩、御召、大島、結城位の区別で、その上に、何々御召と名のつき出したのは、ここ二十年位の事で、私は、父が
「こう、変った名ばっかりつけよったら、一々憶えられんがな」
と、ぶうぶう云っていたのが、今でも、眼の中にある。
それから、解き物がうまい。これは、今でも自信がある。古着は、着物の形のまま売って利のある事もあれば、表と、裏とを離してしまって、別々に売って、利の多い事もある。この表と、裏とを離すのが、両親より遥かに早かった。鋏《はさみ》を一つ、ぱちっと入れると、殆ど、あとは鋏なしで、解いて行く。古着だから、糸が弱っていて、ぶつぶつ切れるが、それを切らずに解くのが技巧で、自分ではおもしろくて、解き物は一手で、引き受けるようになった。
この時分、もう一つ上達したのは、飯焚きと、菜をつくることで――これは、後日になって、私の妻が、貧乏の最中、子供を産んで、寝ている時、私が、幾日か、飯菜を作って、その料理の種類の豊富さと味のよさとに、びっくりさせたものである。沢庵漬から――貧乏ぐらしの惣菜一通りは心得ている。ことごとく幾年か手伝った御蔭である。
十二
高等小学へ行くようになってから、教科書以外の本を買ってもらえるようになった。それも、一冊一月がかりで、だましたり、悲観したり、母から半分もらって、残りをねだったり、相当苦心を必要とした。
その時分、私の家へ一人の食客がくる事になった。松原貴速という人である。その人の為に、物置になっている二階へ、南向きの窓を開けて、畳を敷くことになった。
この松原貴速という人は、長州の俗論党の錚々《そうそう》たる人であったらしく、旧姓山県九郎右衛門という(この人について、御存じの方は御一報願いたい)、後に、石清水八幡の宮司となり、生玉神社にも仕えたが、遂に、浪々の身となって、何ういうのか、父が世話することになったのである。
当時、父の、一番崇奉していた人は、大和の代議士桜井某で、この人が、時々来ては
「えらい人や、世話しとき」
と、云われて、うれしがっていた。二年か、三年も居られたであろうか。中学へ
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