てしまったんじゃ。庭は輝くが如くに見え、草は光をまし行く陽光の中《うち》にいっそう楽しげに見えたのじゃ」
この気狂《きちがい》のような真理を話した時フランボーは巻煙草に火を点けた。
「そして取去られたんじゃ」と師父ブラウンが語をついだ。
「取去られたんであって、盗み去られたんではない。いつかな、盗賊の仕業なら、こうした謎を残しては行かない、盗賊は純金製の※[#「鼻+(嗅−口)」、第4水準2−94−73]煙草|函《ばこ》を盗めば中味の煙草も何も皆《み》んな持って行く。金の鉛筆鞘にしても中の心《しん》も何も皆な持って行く」
「そこで吾々は一個の奇妙な良心を、確かに良心に相違ない、持つ男を論じなくてはならんのじゃ。わしはその狂人のような律儀者を今朝向うの野菜畑で発見した。そして一語一什の物語りを聴いたのじゃ」
「故アーキポールド・オージルビー伯爵はかつてこのグレンジール城に生れた人の中では珍らしい美男であった。しかし彼の俊厳な徳は遂に彼を人間嫌いに変じた。彼はこの城の先祖の不正直なことを知って怏々《おうおう》として楽しまなかった、それから幾分彼は一般に人間というものは不正直なものであると思うようになった。とりわけ彼は慈善とか施財とかいうものを信ずることが出来ないようになった。そしてもし正直に自分に与えられただけの権利以上に決して貪ることを知らぬ人間がこの世にあるなら、その者にグレンジール城内の黄金を残らず譲ってやろうと心に誓った。人間に対してこの挑戦を宣言した後《のち》、彼はしかしそうした人間が何としてこの世にあろうものかと考えながら、城内ふかく人目を避けて閉籠もっていた。しかしながらある日、聾で一見白痴のような一人の若者が遠方の村から、一通の電報を彼のところへ持って来た、伯爵は苦笑いをしながら彼に新鋳《しんちゅう》の一銭銅貨を一枚与えた。少なくともその時は銅貨を与えたのだと思っていた、やがて財布をあけて貨幣をしらべてみると、新鋳銅貨はそのままあって十円金貨が一枚無くなってるのを発見した。この偶然の出来事は伯爵の皮肉な頭に対して好ましい光景を与えた。いずれにしても、その若者は人間らしく貪慾の炎を燃やすであろう。すなわち貨幣盗財として姿をくらますか、褒美ほしさに返しに来るか。その夜の真夜中にグレンジール伯爵は寝込みをたたき起された――彼はたった一人で住んでおったんじゃ――そして最前の白痴のために扉《ドア》をあけさせられた。白痴は果して持って来た、ただし最前の金貨ではのうて、九円と九十九銭、キチンと釣銭を持って来おった。
「そこで、この馬鹿正直行為を見て、狂的な伯爵の頭は火のように燃えた。彼は自分が永い間一人の正直な人間を求めた今様ディオゲネスで、遂にその一人を求め得たのだというた。彼は新たに一枚の遺言書を書いた、それはわしも見せてもろうたが。彼はその律儀な若者を巨大な人気のないこの城中に引取って、無言の下男として、また――奇妙な方法で――自分の後継者として訓育した。そこで、この奇妙な男が伯爵の言《げん》をいかほど理解したとしても、とにかく次の二つの訓言《くんごん》だけは絶対に理解した。[#「。」は底本では欠落]第一に「正直」という文字が万能であること、第二に彼自身がグレンジールの「富」の相続者にされたのであるということ。そこまでは簡単である。男は家中のありとあらゆる黄金を剥取りはじめたんじゃ。しかしじゃその代りに黄金にあらざるものは何一つとして手を触れなんだ。嗅煙草は無論のことである。彼は古い美くしい本さえも引張出して中から金の類《るい》を切取った。しかしそれで他の部分には正直に手をつけんと思うておったようなわけですじゃ
「これだけの事実をわしは知った、しかしわしには髑髏《どくろ》[#ルビの「どくろ」は底本では「ろうそく」]の一件が了解出来ん。馬鈴薯畑から人間の首が飛出したのを見ては心中すこぶる安からざるものがあった。わしは困り抜いた――そこへフランボー君、君が『歯医者』という一言を提供してくれたんだ。
「したがまあよいわ、金歯さえ抜取ってしまえば、髑髏は元の墓の中へ納めるじゃろうからな」
そして、実際、フランボーがその朝、例の小山を通りかかった時、彼は例の不思議な人物、正直一轍の吝嗇漢《けちんぼ》が一度|汚《けが》した墓をまた堀返しつつあるのを見かけたのであった、格子縞《こうしじま》のスコッチラシャを頸のまわりで山風《やまかぜ》にひるがえしながら、そしてジミな絹帽を頭上にいただいて。
底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社
1930(昭和5)年3月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「或→あ・あるい 恰も→あたかも 貴方→あなた 雖も→いえども 如何→いか 何れ→いずれ 一層→いっそう 於て→おいて 恐らく→おそらく 斯→か・こ 反って→かえって 彼処→かしこ 曽て→かつて 位→くらい 此→こ・この 極く→ごく 此処・此所・茲→ここ 是・之→こ・これ 左様→さう 然・而→しか 而かし→しかし 暫し→しばし 暫く→しばらく 直様→すぐさま 頗る→すこぶる 凡て→すべて 直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 其→そ・その・それ 而→そ 其処→そこ 沢山→たくさん 唯→ただ 忽ち→たちまち 度事→たびごと 給→たま 為→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て居→てい・てお て頂→ていただ て置→てお て見→てみ 何→ど・どう 何処→どこ 兎に角→とにかく 取りわけ→とりわけ 何故→なぜ 成程→なるほど 筈→はず 程→ほど 迄→まで 又→また 寧ろ→むしろ 若→も・もし 知れない→しれない 勿論→もちろん 尤も→もっとも 貰→もら 矢張→やは・やはり 俺→わし」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本中の「グレンジル」「グレンジール」、あるいは「フランボー」「フランボウ」、「燈」「灯」の混在はそのままにしました。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年6月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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