久之進の殺されたのが享保三年。この決定が享保七年。足掛け五年の間、源八が使いもせずに持っていたと云うのだから、心掛けのいい泥棒もあったものである。
瀬川は、その金で母の養育を金七に頼み、幡随院《ばんずいいん》の弟子となって名を自貞《じてい》と改め、再法庵に住んで例の歌を作ったというのであるが父の大森通仙の方が詳しく判っている。この話はこの後に至って、自貞がどうしたか、何時死んだか、再法庵というのはどの辺にあったか、その外の歌はどういうのか、主人公の事が少しも判らない。
とにかく、文化三年、司馬芝叟《しばしそう》が「新吉原|瀬川復讐《せがわのあだうち》」という浄瑠璃をかき、続いて「傾城買虎之巻《けいせいかいとらのまき》」となっていよいよ面白くされ、吉原遊女の仇討として人の好奇心をそそったのである。
底本:「仇討二十一話」大衆文学館、講談社
1995(平成7)年3月17日初版発行
1995(平成7)年5月20日2刷
入力:atom
校正:柳沢成雄
2001年5月12日公開
2001年7月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全9ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング