こね》てこの事や」
「洒落か、そら」
「しんどの仕損いって、どや上手やろ」
役人が来て調べたが勿論下手人は判らない。下手人が判らないと、門口にあったという理由で通仙は処払いに処せられる。これも判らない処分であるが、こうしないと松葉屋瀬川の話はおもしろくならない。
この時代より以前、板倉伊賀守が奉行をして居た頃、ひどくこの鹿に就《つい》ての処分法が苛酷であったから、寺社奉行と相談の上改めた事よりも、講談俗書では矢張り、厳刑のままの方が名高い。
通仙仕方がないから又京都へ行く。ここも面白くないから大阪へ出て山脇通仙と改めていたが、何の因果か奈良程繁昌しない。繁昌はしないが、元が武家で今が医者だから相当の交際はできる。その上に、これを事実らしくする為に持出してきた友人が、鯛屋《たいや》大和《やまと》、号を貞柳という狂歌の名人である。上本町五丁目の寺に墓があるが、この人を引張り出してきて通仙の友人にしてしまった。通仙もいい友人が出来たから、貧乏の棒が次第に太くなり、というような狂歌を作っている内に病気になって死んでしまったが。とにかく、仇討物語もいろいろとある中に、この位経歴のよく知れた人は無い。
当時の大阪城代内藤豊前守の家中百五十石勘定方小野田久之進へ、この貞柳が、たかを嫁入らせた。母親は年増だがいい女、娘は後の松葉屋瀬川、久之進も悪い気持でない。
五
享保三年、内藤豊前守御役御免になって、領地越後の国村上へ帰る事になった。久之進も勿論同道、一旦深川の上屋敷へ戻ったが、後片附の為、同十月藩金四百五十両を携《たずさ》えて大阪へ上る事になった。
東海道で、悪馬子の出るのは箱根、盗賊の出るのは薩陀峠《さつたとうげ》ときめてある。この御きまりの薩陀峠へ、小野田久之進不覚にも一人で差しかかった。大抵旅人は五六人、七八人も一緒になって由井を出て薩陀へかかるのであるが、大事な役目を控えながら、ただ一人、白昼にしても夕方にしても山中深い所へきたから、
「旅人まて」
と人相の悪いのが三四人出てきた。人相の悪い盗賊なんてものは大抵下っ端である。頭分《かしらぶん》になると皆人相がいい。何んとかという殺人鬼など、尤《もっと》も深切な銀行員、小間物屋の如くであったと云うし、今でも大きい泥棒は大抵堂々と上流に住んでいる。
「何を小癪な」
と、ちゃんちゃんとやったが、久
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