へ頼んで、又右衛門は見張る事にした。松屋の近くの宿では泊れぬから、仕方無しに馬問屋へ頼んで、腰をおろしたのである。七日の明け切れぬ中に荒木はここを立った。これから先は、道を選んで場所をこしらえるだけである。隠れているのによくて敵の逃道の無いそして味方に足がかりのいい所を選ばなくてはならぬ。探《たず》ね探ねしながら長田川の橋を渡って五町、上野の城下小田町の三ツ辻まできた。上野は藤堂家の領地で、此処には数馬の知人もいる。三ツ辻、俗に鍵屋の辻ともいうが突当りが石垣で、右角の茶店が万屋《よろずや》喜右衛門、右へ曲ると塔世坂《とうせざか》という坂があって町へ入る。左角が鍵屋三右衛門、角を折れると北谷口から城の裏へ出る事が出来る。
「此処がいい。左右に分れて隠れる事が出来るし、先が曲ってしまえば、後の出来事は判らない。ここで逃路を切取って二人が前から懸れぱ袋の鼠に出来る。武右衛門と孫右衛門は鍵屋の角で隠れて敵の逃げるを斬るがいい。もし先立って甚左か半兵衛が来たなら二人でかかれ。私は最後の奴を斬捨てて下人共を追散そう。数馬はただ又五郎一人にかかって余人に振向くな、余人は又右衛門が必ず一人で食止めるから。それからくれぐれも云っておくが、もし半兵衛が先に来たら武右衛門、決して槍をとらすな。半兵衛を斬るか槍持を斬るかとにかく槍を執らさぬ手段をするがいい。斬込む合図は私が後の奴を斬ると同時だ。三人一度に目指す者にかかれ」
 こういう指図であったらしい。十一月七日の早朝だから寒空である。又五郎の一行を待つ為めに四人は万屋へ入った。街道筋の商人《あきゅうど》はこの寒さにも五時から店を開けている。
「亭主寒いナ」
 と云って入った。この四人、そろって上方者だから写実で行くと、
「おっさん、えらい寒いこっちゃナア」
 と云ったかも知れぬが、とにかくこの茶店へこういう事を云ったと伝えられている。
「親父、じろじろと見るナ。怪しくみえるかの。武士《さむらい》と云うものは敷居を跨ぐと敵のあるものでのう。鎖帷子、ほうら鎖頭巾、どうじゃ、こうちゃんとした扮《なり》をするといい男だろうがの、今に喧嘩でもしてみろ、三人や五人ならおくれはとらぬぞ。時に亭主もっと燗を熱くしてくれ」
 又右衛門は濁酒《どぶろく》の燗を熱く熱くと幾度も云ったそうである。茶屋の親仁《おやじ》だから燗の事だけは確かに明瞭《はっきり》と覚えていたにちがいない。酒を傾けながら孫右衛門は時々店先へ出て、又五郎らの来るのを見る。長田川の橋からは一本道で橋上にかかれば茶店からは一眼である。敵がそこへ現れたという合図は孫右衛門が小唄を唄う事にしてある。
「いい心持になった、亭主、この羽織をお前にくれてやろう」
「旦那様、めっそうもない……」
「ま、取っておけ、少し長いぞ」
 と云ったが又右衛門の身丈《みのたけ》六尺二寸と云うのだからぞろりと着れば踵まであったかも知れない。
「亭主、わしのもくれようか」
 と云って数馬も羽織をぬいだ。これは池田家第一の美男子と称された源太夫の兄である。遺伝学から云うと兄より弟の方がいい男が多いそうだが、その代り兄は甚六で多少ゆったりしているから矢張り数馬もいい男であったにちがいない。緋羽二重《ひはぶたえ》の下着に黒羽二重の紋付という扮装《いでたち》など、如何にも色男らしいこしらえである。
 寛永時代の小唄だから頗《すこぶ》る悠長な、間のびのした半謡曲染みたものであろう。酒も大してのまないのに、孫右衛門店先でゆらゆら唄出した。
 襷《たすき》に、鉢巻、足許を調べて、
「亭主、勘定」
 武右衛門と孫右衛門は左角の鍵屋の軒へ忍んで北谷口で逸する敵の退路《にげみち》を切取ると共に先頭《さき》に立つ一人を斬る。荒木、渡辺の二人は万屋の小影に身をひそめて又五郎と附人に当る。

     四

 寛永十一年十一月七日、辰の刻、今の朝八時である。此時荒木が又万屋へ戻ろうとするから、
「何故《なぜ》?」
 と聞くと、
「イヤ、一文多く渡したのだが、平常《いつも》なら何でも無いが、こういう場合だから、又右衛門め周章《あわ》てたなと思われるのが残念だから、一寸《ちょっと》行って取戻してくる」
 と云ったという話があるが、これは嘘らしい。 
 長田川の橋に現れた一行、真先に立って周囲《あたり》を見廻しつつ馬上でくるのは又五郎の妹聟で大阪の町人虎屋九左衛門、半町も先に立って物見の役とある。つづいて美濃の国戸田家の浪人、桜井半兵衛とって二十四歳の若者、使慣れたる十文字の槍を小者三助に立てさせ馬側に気に入りの小姓|湊江清左衛門《みなとえせいざえもん》を引つけ、半弓をもった勘七、同じく差替をもった市蔵を後にしたがえて、天晴なる骨柄寛永武士気質を眉宇《びう》に漲らせている。又五郎同じく二十四歳、小者一人、喜蔵というに十文字の槍をもたせ後ろを押える人として叔父の川合甚左衛門、四十三という男盛り、若党与作に素槍を担《かつ》がせ、同じく熊蔵を従えた主従十一人鎖帷子厳重に、馬子人足と共に二十人の一群、一文字の道を上野の城下へ乗入れてくる。
 荒木又右衛門保和、時に三十七、来《らい》伊賀守《いがのかみ》金道《きんみち》、厚重《あつがさね》の一刀、※[#「※」は「金+祖」「祖」のしめすへんは「ネ」」ではなく「示」、第3水準1−93−34、48−5]元《はばきもと》で一寸長さ二尺七寸という強刀、斬られても撲られても、助かりっこのない代物である。虎屋九左衛門の馬は遥かに過ぎ、鍵屋の前を桜井の馬が曲り、押えの甚左衛門が、今万屋の軒先へさしかかった時、
「甚左衛門ッ」
 大音声の終らぬうち大きく一足踏出した又右衛門の来金道、閃くと共に右脚を斬落としてしまった。馬から落ちる隙も刀を抜くひまも無い。タタと刻足《きざみあし》に諸共《もろとも》今打下した刀をひらりと返すが早いか下から斬上げて肩口へ打込んだ。眼にも留らぬ早業である。川合甚左衛門、自慢の同田貫《どうたぬき》へ手をかけたが抜きも得ないで斃《たお》されてしまった。一口に刀を返してというが中々尋常の腕でこの返しが利くものでない、「翻燕《ほんえん》の刀」と称して、真向へ打を入れて、受けんとする刹那、転じて胴へ返すのが本手で、これはいろいろに使うのである。打込んで行く勢を途中で止めるのが練磨の腕前だが敵もさる者、それを見破ってその「間《かん》」に逆撃されると負になる。あくまで真向《まっこう》微塵《みじん》とみせて、ヒラリと返すのだから一流に達した腕でないと出来ない芸当である。初太刀は大抵受けられるが、後の先といってすぐの斬返しにまで備えるのは余程の腕が要る。片脚を落された刹那刀を抜いて次の斬込みに備える隙位は普通の相手なら有る所だが、名代の荒木又右衛門、斬下すと共に返してきたから、隙も何も有ったものでない。二太刀で物の美事にやられてしまった。甚左衛門を倒すと共に、周章《あわ》て立つ小者共に、
「邪魔すなッ」
 と大喝したから、思わず逃出す。
「数馬、助太刀はせぬぞッ」
 と云い捨てて、二人きりの勝負とし、小者共を追いながら鍵屋の角から桜井半兵衛へかかって行った。
 この早業は到底数馬には出来ない。荒木と共に走出したが、又五郎も期していた所である。供の槍を取るが早いかそれを力にしてひらりと左の方へ降立つ。
「又五郎、覚悟致せ」
「さあ、参れッ」
 万屋も鍵屋もバタバタと戸を閉める。小田町は大騒ぎになった。数馬は又右衛門に仕込まれて相当の腕にはなっている。しかし真剣の立合はこれが始めてである。ただ敵に対した時の覚悟だけはちゃんとしていたらしい。美少年でも流石《さすが》は寛永時代の武士、中々味のある勝負をしている。又五郎は琢磨兵林によると真刀流の達人で、弱年の頃「猫又」を退治したと書いてあるが、「猫又」などという代物が怪しいように、又五郎の腕も判らない。その証拠には源太夫を殺した時に周章《あわて》て、止《とど》めも刺さなけりゃ、鞘まで忘れて逃出してしまっている。不良少年の強がりで一寸《ちょっと》人を斬っては見たが、度胸も腕もそうあったものとは思えない。それ以後二三年の修業だからまずは数馬と互角の勝負、ただ槍をもっているだけが強味という所である。腕が同じだと槍の方に歩がある。槍の目録に対して刀の免許が丁度いい位で、一段の差があるそうである。
 又五郎は中段に位をとる。数馬は柳生流の青眼、穂先と尖先《きっさき》が御互にピリピリ働いて、相手に変化を計られまいとする。二尺余りを距てて睨合っているが、槍の方から仕懸けて行くらしく時々気合と共に穂先が働く。それにつれて刀も動く。と、閃めいた穂先、流星の如く胸へ走る、数馬の備前《びぜん》祐定《すけさだ》二尺五寸五分、払いは払ったが、帷子の裏をかいて胸へしたたか傷けられた。
「此処だぞ」
 と、数馬は思った。
「自分は死んでもいい、その代りにはきっと又五郎は討取ってみせる、さあ来い」
 又右衛門の仕込んだのは此決心である。身を捨てて敵を討つという必死の決心である、短い気合を二三度かけるが早いか、数馬は又五郎の手元へ飛込もうとした。さっと繰引いて突出す槍、胸へ閃いてくるのをそのままに片手で槍の柄を握るが早いか、半身を延して片手討の大上段、真向から斬込んでしまった。槍は離れて得な武器だが、附込まれて役に立たぬ。放すが早いか飛退って腰へ手がかかる刹那、左手《ゆんで》に槍をすてて片手なぐりに二度目の祐定が打下す。こうなれば受ける隙も無い。咽喉笛へ噛《かじ》りつきたいように憎みを御互にもちながら、又五郎も斬らしておいて抜打に数馬の真額《まっこう》へ斬つける。この抜打は承知の事だから、避けは避けたが気が上ずっている身体《からだ》はままに動かない。耳から頬へかけて一筋かすられる。こうなればもう二人とも本当の刀は使えない。無茶苦茶に呼吸《いき》がつづけば斬合うだけである。相当の腕の者なら、槍を受けておいて斬込んだ時に、致命傷を与えてそれでケリがつくのだが、腕のちがいはそうも行かない。宮本武蔵が、
「二刀を使うのは、片手でも双手《もろて》と同様に働かせるための練習である」
 と云っているが此処の事である。片手で斬込んだ時|平常《ふだん》の練習で双手で斬込んだと同じ効果《ききめ》があったら、数馬は矢張池田家中第一の美男子でおられたかも知れないが、不幸にしてこの心得が無かったため、顔へ二ヵ所の傷を受けてしまった。武蔵は従って大抵二刀で仕合をしていない。必ず一刀でそして一太刀で相手を倒している。流石《さすが》に剣道の第一人者だけの事がある。又右衛門とは又同日の談ではない。
 この二人の勝負で、数馬は十三ヵ所、又五郎は五ヵ所の手傷を受けた。池田家に保存されているこの時の祐定の刀には六ヵ所も斬込みがあって如何に悪闘したかを物語っているが、伝える所によると「辰の刻より三刻が間」というから朝の九時から午後の三時まで斬合っていた事になる。正味六時間、これはどうも※[#「※」は「言+虚」、第4水準2−88−74、51−15]《うそ》らしい。又右衛門が甚左衛門を斬ったのは物の十秒とかかっていない、それからすぐ桜井半兵衛にかかって、容易《たやす》く打討《うちと》ったのだから長くて四五十分の事である。一時間とみたとしても残りの五時間を又右衛門が又「熱燗」で、二人の勝負を見物していたとは考えられない、この三刻は甚左衛門が斬られてから、役人の出張、負傷者の手当、野次馬が又右衛門について役所へ行く迄の時間と見るのが正当である。
 鍵屋の角を曲った時、桜井半兵衛は又右衛門の懸声を聞いた。とたん、物影から武右衛門が斬つけた。たたみかけて斬込む刀、槍を取る隙が無いから、刀の鞘を払って受留めると共に馬からうしろへひらりと降立った。武右衛門と共に走出た孫右衛門は、槍持ちの三助に斬かかったから、三助驚いて槍を縦横に振廻す。半兵衛と三助御互に渡しも受取りもできない。素破《すわ》っ、と驚いたが流石に半兵衛の供をしてきた若党だけある。清左衛門が抜くと共に市蔵も木刀を抜いた。定まらぬ腰ではあるが、主人大事と
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