鍵屋の辻
直木三十五

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)義村《よしむら》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)荒木又右衛門|源《みなもとの》

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(例)※[#「※」は「金+祖」「祖」のしめすへんは「ネ」」ではなく「示」、第3水準1−93−34、48−5]
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     一

 張扇から叩きだすと、「伊賀の水月、三十六番斬り」荒木又右衛門|源義村《みなもとのよしむら》――琢磨兵林《たくまひょうりん》による、秀国、本当は保和、諱《なのり》だけでも一寸《ちょっと》これ位ちがっているが――三池伝太|光世《みつよ》の一刀をもって「バタバタ」と旗本の附人共三十六人を斬って落すが、記録で行くとこの附人なる者がただの二人になってしまう。その上困った事にはこの天下無双の荒木又右衛門が背後《うしろ》から小者に棒で腰の所を撲られている。琢磨兵林――これは著者が鳥取に渡辺数馬を尋ねて行って書いたものと称しているが時々誤りのある実録物だ――だと、これがもう一つひどくなって頭を二度槍で撲られている。とにかく柳生十兵衛取立の門人一万二千人――但し講釈師の調査――の中から、只一人の極意皆伝という又右衛門が小者輩《こものはい》に腰だの頭だのを撲られては恩師十兵衛に対して甚《はなは》だ申訳の無いことであるし、第一三十人も御負けをつけて贔屓《ひいき》にしてくれた講釈師に対しても全く済まぬ訳であるが、どうも事実だから曲げる事もできない。尤《もっと》も芥川竜之介に云わせると、
「そりゃ君、又右衛門が棒だと知っていたから撲らしておいたのだよ」
 と説明するがこれは、氏の機智意外に面白い解釈である。棒位なら時として撲らしておいてもいいというのは武術の心得の一つである。
 宮本武蔵の二刀流を伝えた細川家の士《さむらい》に都甲太兵衛《とごうたへえ》と云う人がある。一日《あるひ》街を行くと人が集って騒いでいる。聞くと、
「角力取《すもうとり》らしい男が人を斬って、あの空屋へ逃込んでいるが捕える手段《てだて》が無くて困っている」
 と云うのである。
「何か壁を壊す物があるまいか」
 と聞くと、杵《きね》をもって来た。太兵衛はそれで壁へ穴をあけると、のそのそと尻から先へ押入っていった。いかさま不思議な入り方である。太兵衛が曲者を捕えて人々に引渡した時に、
「尻から入るは、どうした訳で御座りますか」
 と聞くと、
「あいつめ異な事をする奴だわいと、呆んやり見ていたからすぐ捕える事ができたのだ、それに尻なら少々斬られたって大事が無いからな」
 と答えた。この尻の逸話《はなし》から推すと、又右衛門の腰も、
「棒なら大事ないからなあ」
 と芥川説がちゃんと理由づけられる事になる。然し尻でも腰でも切られぬに越した事は無い。ただ尻から入る機智、尻なら少々斬られてもいいという覚悟は、武術の奥儀を腹に包んでいる人にして始めて出る考えであり、出来る覚悟である。そして都甲太兵衛は対手《あいて》を知っていたからである。もし次のそう云う場合にも彼は矢張り尻から入るかと云ったら、恐らく愚問だと笑うだろう。時には壁を全部こわしもするだろうし、時には黙って通りすぎるかも知れない。機により変に応じて、それぞれに処して行くのが剣の極意である。伊東一刀斎の「間《かん》」と説明しているのも此処である。事に面してどう処して行くか。一瞬の「間」に当って腹ができていると「尻を斬らして捕え」もするし「腰を撲らして」強敵を倒しもするのである。「間」はただ剣と剣とを交えている時の「隙」だけでは無い、あらゆる突発的出来事に面した時の刹那の「間」であって、これにちゃんと処して誤らないのは「出来た腹」のみである。そうしてこの腹は剣からも入る事が出来るし禅からも入る事ができる。多くの剣客が禅に篤《あつ》く所謂《いわゆる》剣禅一致の妙などと云う言葉をも喜んだものである。勿論文芸からでもいいし、女買いからでも入れるし、絵からでもいい。武蔵が絵画も剣も究極は一であると云ったがこの意味である。
 又右衛門の師、柳生|但馬守《たじまのかみ》宗矩《むねのり》などはこの点に於てその妙境に到達している人である。禅でも心の無を重んじるが剣も心を虚《むなし》くする事を大切としている。無刀流とか無念流とか無想剣とか無を大事にした事は多い。
「打太刀にも、程にも、拍子にも、心を留むれば手前の働き皆脱け候《そうらい》て、人に斬られ可申《もうすべく》候。敵に心を置けぱ敵に心をとられ、我身に心を置けば我身に心をとられ候――是《これ》皆心の留まりて手前の脱け申により可申候」
 と沢庵《たくあん》禅師の「不動智」にあるが、無念無想の境にあって敵に応じて無より出、無限に働くのを極意としている。平たくいうと、敵の眼に心を留めると、太刀の方が留守になるし、太刀のみに気を入れていると、脚の構えが抜けるし、一人に心を留めると、背後《うしろ》へ廻った敵に困るし前後へ気を配れば左右が粗になる。というように到底心を何物にかに留めては、留切れないから、こっちが「無」になってしまって対手を見ない事にするのである。そして敵から与える「間」にこっちが働いて行くのである。「無」になる為めには勿論生死を出ていなくてはならぬ。何時《いつ》でも死んでもいい腹は一番に結《くく》っておかねばならぬ物である。武蔵に見出された時の都甲太兵衛が、細川公の前で武蔵から、
「平常《へいそ》の覚悟は」
 と聞かれて、
「いつも死の座に居るつもりしていたが、近頃その死という事も忘れた。何も云う事も無いが、そう聞かれると、こうでも返事するより外に覚悟は無い」
 と答えると、武蔵が、
「これが剣の極意と云うもの」
 と云った話がある。宗矩の高弟である又右衛門も多少この辺の事は心得ていたらしい。腰の一件も、強敵桜井半兵衛を斬倒していた時だから、
「腰ならいい」
 と撲らしておいたとも云える。少くもその腰を撲った小者を、刀で払いはしたが斬らなかった所を見ると対手にせなかったものらしい。
「危い危い、傷《けが》しちゃいけないから退《の》け退け」
 位《ぐらい》は云ったかも知れぬ。――と、尤《もっと》もこれは又右衛門を贔屓《ひいき》にしての説明で、本当は油断の隙を撲られたのかも知れない。

     二

「主人、朋友の敵《かたき》は其義《そのぎ》の浅深に可依也《よるべきなり》、我子|並《ならび》に弟の敵者不討也《かたきはうたざるなり》」
 と「勇士常心記」に出ている。弟源太夫の敵として又五郎を討つと云う事は当時の武士の常識から云って出来ない事である。それを荒木又右衛門までが助太刀に出て、天下の評判を高めたのは、弟の敵以外に「上意討」の如くなっていたからである。又五郎を旗本の安藤四郎右衛門――講釈の阿部四郎五郎――が隠匿して池田公に喧嘩を吹掛け、
 此度《このたび》は備前《びぜん》摺鉢《すりばち》底抜けて、池田宰相味噌をつけたり
 と云うような落首まで立つ位になったから意地として池田|忠雄公《ただたけこう》は又五郎を討たずにおれなかった。それで手強く幕府へ懸合っで老中共も持余《もてあま》している時、毒殺だと噂された位急に死んでしまったのである。死際《しにぎわ》に、
「旗本の面々と確執を結び、不覚の名を穢《けが》し、今に落着|相極《あいきわま》らず死せん事こそ口惜しけれ、依て残す一言あり、我れ果《はて》ても仏事追善の営み無用たるべし、川合又五郎が首を手向《たむ》けよ、左なきに於ては冥途黄泉の下に於ても鬱憤止む事無く」
 と遺言した位だったから、数馬の決心も固くならなくてはならぬし弟の敵であると共に主君の命によって討つ所謂《いわゆる》「上意討」も含まれてきたのである。
 寛永九年三月、
「川合又五郎と申す者は一夜の宿を貸し候とも二夜と留置き候者は屹度《きっと》曲事《くせごと》に行わるべき者也」
 という御触れが出て又五郎は江戸に居られなくなった。これは一方の池田公が暴死したから、旗本を押える為めの御触れである。こうなれば四郎右衛門も匿まっておけない。江戸を出るとすれば池田家の誰が討たんにも限らぬし、郡山《こおりやま》名代の剣客、数馬の姉|聟《むこ》である荒木又右衛門が助太刀に出ているというから又五郎は危い。寛永の頃の武士気質《さむらいかたぎ》は未だ未だ大したものであった。荒木と同家中であって又五郎の叔父に当る川合甚左衛門が浪人して又五郎の為めに助太刀にくるし、又五郎の妹聟桜井半兵衛も、
「見ず知らずの旗本さえあれだけの事をしてくれるに縁につながる自分が出ぬ法は無い」
 と戸田左門|氏鉄《うじかね》の家中で二百石を領していた知行を捨てて加わって来た。この桜井半兵衛は十文字槍の達人で、霞構《かすみがま》えと来たら向う所敵無しと称されていた者である。家中では霞の半兵衛という綽名《あだな》の出来《でき》ている位槍をもたしては名誉の武士であった。又右衛門が鍵屋の辻で、
「半兵衛に決して槍をとらすな」
 とその為めに孫右衛門、武右衛門の二人にかからせたのでも判る。
 又五郎は一二カ所に匿れ忍んで居たが面白くなかったり主人に死なれたりして結局又江戸へ戻ったらという事になった。江戸御構いというものの黙って入ってこっそり隠れて居れば旗本の同情があるから判りっこはない。田舎で目に立ってびくびくしているよりもその方が利口である。頭山満《とうやまみつる》の邸へ逃込んだ印度人がとうとう判らなくなったり、早大の佐野学が某所に匿《ひっこ》んでいるんだなどと噂やら事実やらとにかく東京で有力な人の袖に縋《すが》れば、安全な事今も昔も大した変りはない。荒木は又五郎の動静を主として甚左衛門の一止一動によって知ろうとした。甚左衛門も寛永の武士気質をもっている立派な男である。又五郎へ義理立てて浪人してからは又五郎の居る所に必ず附いて行く事にしている。又右衛門は甚左衛門と同家中だから敵の顔を知らぬ上に於て、甚左の意地張《いじば》って又五郎の前に立っているのを利用するにかぎる。甚左衛門はそうと知っているがそれを避けて匿れる程の策も持たない。意地一本、真正直に又右衛門に逢えぱ討取るつもりでいる。

     三

 又右衛門は甚左衛門が奈良へ帰った事を知った。探偵してみるとどうやら又五郎も一緒らしい。機会としては絶好の時である。然し当時奈良の町奉行は中坊飛騨守秀政《ちゅうぼうひだのかみひでまさ》といって旗本の関係者であった。もし濫《みだ》りに斬込んで、奉行の手で邪魔が入ったり、討ったとしても後で不利益だったりしてもつまらぬし、町家では町人百姓が騒立ててどんな事が起らぬにも限らぬからそのまま様子を見ている事とした。寛永十一年十一月五日の事である、諸説あるが、馬子の口から洩れたというのが本当だろう。又五郎から馬三頭を六日の夜明けぬうちに廻せという註文がきたというのである。待っていた機会がいよいよ来た訳である。見張を出して川合方の様子を見せると、立ちそうだという。四人は支度を整えて一行の跡をつける事にした。鎖帷子《くさりかたびら》と鎖入鉢巻の用意をして、七八町のあとから見えがくれに後を追って行く。
 武士の意地で殺し、意地から匿《かくま》い、意地で来た助太刀である。いつでも対手になってやるという覚悟で、勿論鎖帷子、白昼堂々と槍を立てて又五郎は行く。三人に槍三本、鉄砲一挺、半弓一張とちゃんと格式を守って大手を振っているのである。若党、小姓、足軽、人足合せて二十人、奈良|般若寺《はんにゃじ》口から坂道を登り木津から、笠置を経て、笠置街道を進む。六日の午後の二時に島ヶ原へ入った。日足の早い冬、次の駅まで行くのは危険である。敵をもつ身はただの旅人にも増して早立ち早泊りが必要である。それで松屋という宿へ泊る事となった。それを見届けて、松屋より二三町先の方、馬借《ましゃく》勘兵衛《かんべえ》の家《うち》
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