郎を討たずにおれなかった。それで手強く幕府へ懸合っで老中共も持余《もてあま》している時、毒殺だと噂された位急に死んでしまったのである。死際《しにぎわ》に、
「旗本の面々と確執を結び、不覚の名を穢《けが》し、今に落着|相極《あいきわま》らず死せん事こそ口惜しけれ、依て残す一言あり、我れ果《はて》ても仏事追善の営み無用たるべし、川合又五郎が首を手向《たむ》けよ、左なきに於ては冥途黄泉の下に於ても鬱憤止む事無く」
 と遺言した位だったから、数馬の決心も固くならなくてはならぬし弟の敵であると共に主君の命によって討つ所謂《いわゆる》「上意討」も含まれてきたのである。
 寛永九年三月、
「川合又五郎と申す者は一夜の宿を貸し候とも二夜と留置き候者は屹度《きっと》曲事《くせごと》に行わるべき者也」
 という御触れが出て又五郎は江戸に居られなくなった。これは一方の池田公が暴死したから、旗本を押える為めの御触れである。こうなれば四郎右衛門も匿まっておけない。江戸を出るとすれば池田家の誰が討たんにも限らぬし、郡山《こおりやま》名代の剣客、数馬の姉|聟《むこ》である荒木又右衛門が助太刀に出ているというから又五郎は危い。寛永の頃の武士気質《さむらいかたぎ》は未だ未だ大したものであった。荒木と同家中であって又五郎の叔父に当る川合甚左衛門が浪人して又五郎の為めに助太刀にくるし、又五郎の妹聟桜井半兵衛も、
「見ず知らずの旗本さえあれだけの事をしてくれるに縁につながる自分が出ぬ法は無い」
 と戸田左門|氏鉄《うじかね》の家中で二百石を領していた知行を捨てて加わって来た。この桜井半兵衛は十文字槍の達人で、霞構《かすみがま》えと来たら向う所敵無しと称されていた者である。家中では霞の半兵衛という綽名《あだな》の出来《でき》ている位槍をもたしては名誉の武士であった。又右衛門が鍵屋の辻で、
「半兵衛に決して槍をとらすな」
 とその為めに孫右衛門、武右衛門の二人にかからせたのでも判る。
 又五郎は一二カ所に匿れ忍んで居たが面白くなかったり主人に死なれたりして結局又江戸へ戻ったらという事になった。江戸御構いというものの黙って入ってこっそり隠れて居れば旗本の同情があるから判りっこはない。田舎で目に立ってびくびくしているよりもその方が利口である。頭山満《とうやまみつる》の邸へ逃込んだ印度人がとうとう判らなくなったり、
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