った。「といって、投身《みなげ》したんでもありませんよ。心臓を深く刺されて殺されているんですから」
「しかし君は誰も訪ねて来た者を見なかったと言ったじゃないか?」フランボーが重々しい声でいった。
「坂道を少し歩いてみるかな」と坊さんが言った。
 一同が街路の終りまで来た時に師父ブラウンは突然にこういった。「ホウこれはわしがウッカリしておった。巡査に少しきくことがあったに、皆んなは薄褐色の袋を見つけたかしら」
「どうして薄褐色の袋をですか?」とアンガスが訊いた。
「なぜって、それが外の色の袋ならば、問題は新奇蒔直しじゃ。もし薄褐色の袋なら、さようと問題は解決されたのじゃ」
「へエそれは結構な事ですな」とアンガスは腹の底から皮肉に出て、「僕の知ってる限りでは、事件はこれから始まるところだと思いますが」
「師父、どうか我々に皆話して下さい」フランボーは小供のように、妙に真面目になって言った。
 一同は知らず知らず、長い坂路を足早に下って行った。ブラウンは先頭に立って、無言ではあるが、テキパキ歩いた。遂に彼はしまりのないような調子で次のように始めた。
「まアしかし、君達はわしの話を退屈に思いはしないかな。吾々は物事を抽象的の結末から始まるもので、この問題等も、外の所からではどうしてもらちが明かんのじゃ」
「あなたがたはこういう事に気がついた事がありますかな、人というものは決して吾々のきく通りのことを答えんということをな。他人は吾々の問う言葉の意味に対して答えるものでな。まあある婦人が田舎の別荘に他の婦人を訪ねて『こちらにはどなたが御滞在ですか』と訊くとするとその時一方の婦人は『はい給仕男と下男が三人小間使が一人……』などとは――たとえば小間使が客間に居ようとも、給仕男が椅子の背後に控えていようと。――決して答えはしますまい。しかし、医者が伝染病患者の診察に来て、『こちらにどなたがおいでですか?』と訊ねるなら、貴婦人は給仕や小間使やその外の者をも告げるようなものです。すべて言葉というものはそんな風に使われるもので、ほんとの返事を受ける時でさえ、問に対して、文字通りの返事を受けんものじゃ。今四人の正直な人が、建物の中へは一人もはいった者がないと答えたのもこの理窟でな、ほんとの意味で、一人もはいった者がなかった訳ではない。彼等の腹では、問題になるような疑わしい人物は一人もはいらなかったという心算《つもり》じゃ。実際は一人の人間が建物の中にはいって、そして出て来たんだが、彼等はそれを心にとめなかったまでの事でな」
「見えざる人ですか?」とアンガスは彼の赤い眉をつりあげながら訊いた。
「心理的に見えざる人じゃ」ブラウンはいった。
 それから一二分の間をおいて、ブラウンは行く道を考えてる人のように、相も変らぬ謙遜な声でまた語り出した。「もちろんあなたがたはさような人の事を考える事が出来るかもしれん。サアそこが犯人の狙いどころでな。しかしわしはアンガスさんのお話のうちに二三ちょっと暗示を得たところがある。第一に、そのウェルキンなる者がしばしば遠方まで歩き廻ったという事実がある。次に、飾窓に郵便切手をたくさんに貼付けたという事実がある。次にまた、これが第一じゃが、その若い婦人のいわれた事が二つある。もっともそれは真実ではなかった……まああなた気を悪くされては困るが」と、ブラウンはアンガスが急に頭を振立てたのを見たので、あわててこうつけ加えた、「御婦人は自分では事実だと信じておいでのようだが、どうもそれは事実ではない。ある人が街で手紙を受取るとする、その時街路に誰も居ないという事はない、その御婦人が受取ったばかりの手紙を読もうとした時に、街路に彼女たった一人という事はないはずだ。その婦人に傍近く誰か居ったに違いない。彼こそ心理的に見えざる人に違いない」
「なぜ彼女の近くに誰かが居なければなりませんか?」アンガスが訊ねた。
「なぜなれば、伝書鳩を除いて、何人かがその手紙を持参せねばならぬはずじゃ」
「というその意味はウェルキンが恋敵の手紙を恋人のところへ持参したというのですか?」とフランボーが訊ねた。
「さよう。ウェルキンが恋敵の手紙を恋人の所へ持って行ったのじゃ。よろしいか、彼はそうせねばならなかったのじゃ」
「ああ、もう僕は我慢出来ん」フランボーが反駁するような調子でいった、「一体何者だろう。どんな様子の男だろう、心理的に見えない人間なんて一体どんな風体の人間なんだろう?」
「彼は赤や青や金づくめのかなり華美ななりをしとる」坊さんは即座にこう答えた、「そしてそんな目立つ服装として、八つの眼の中をくぐって、ヒマイラヤ館へはいって行ったのじゃ。彼は冷血にスミスを殺した上、その死体を小脇にかかえて、また外に降りて来たんじゃ」
「師父」とアンガスは棒立になった、「あなたは気は確かですか。それとも僕の方が?」
「あなたも気がふれては居らん。ただ観察がちと足らんな。まあ例えばだ、あなたはこうした人間には気がつくまいがな」
 ブラウンは三足ばかり前方へ進み出て、彼等の傍の樹の蔭を人知れず通りすぎていた普通の郵便配達夫の肩に手をかけた。
「まアお互に、郵便屋さん等は何んとはなしに目にははいらん方ではある」ブラウンは思入れ深げにいった、「だがしかし、郵便屋さんだとて外の人間と同じように感情を持っとるでな、小男の死体くらいは楽にはいるだけな袋など持っとるよ」
 郵便配達夫は、一同の方へ顔を向けるのが自然なのに、頭をひっこめて、生垣の方へヒョロヒョロとよろめいた。彼は美髯をたくわえた、長身の、全く平凡な風采の持主だが、しかし彼が肩越しに驚いた顔をこっちへ向けた時、三人は猛烈な藪睨の視線をじっと浴びせられた。
 フランボーは、サーベルや紫の敷物やペルシャ猫等色々の物が待っている彼の室に帰った。ジョン・タンボール・アンガスは店に彼を待ってるローラの許に立ちかえって、共にその無謀な青年はその女と共に極めて居心地のよいように何んとか工夫する。だがしかし師父ブラウンはキラキラと星に照されている雪におおわれた真白な丘を、殺人者と共に幾時間も歩き続けた、そして二人がお互に何を話したか。それは知る事は出来ない。



底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社
   1930(昭和5)年3月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方→あなた 彼奴→あやつ 有難い→ありがたい 或い→あるい 居→い・お 何時→いつ 於て→おいて 凡そ→およそ か知ら→かしら かも知れ→かもしれ 位→くらい 斯う→こう 此→この 之→これ 凡て→すべて 其処→そこ 其→その・それ 其奴→そやつ 然・然し→しかし 度い→たい 丈け→だけ 唯→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 丁度→ちょうど 頂戴→ちょうだい 一寸→ちょっと 何処→どこ 兎も角→ともかく 飛んだ→とんだ 尚・猶→なお 成程→なるほど 筈→はず 殆ど→ほとんど 又・亦→また 迄→まで 間もなく→まもなく 見→み 若し→もし 以て・以って→もって 尤も→もっとも 程→ほど 俺→わし」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(天野まい・大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2009年8月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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