である。そして彼はだまってそれをアンガスに渡した。見れば赤インキはまだ乾ききっていない。文句に曰く、
「お前が今日あの女に会いに行ったのなら[#「なら」は底本では「たら」]、俺はお前を殺す」
 短い沈黙の後、アインドール・スミスがおだやかにこういった。
「ウイスキーを少しどうです私は欲しいような気がするが」
「ありがとう。僕はフランボー君の方が欲しい」とアンガスは陰欝気に云った。「これはどうも僕には容易ならぬ事件のように思われますなア。では僕はすぐ行って先生を連れて来ます」
「結構です」と相手は元気よくいった、「じゃ大至急お連れして下さい」
 しかし、アンガスが入口の扉《ドア》を閉めた時、彼は、スミスが一つのボタンを押すと、一つの機械人形が動き出して、サイフォンと酒瓶とをのせた一枚の盆を持って、床の溝を走って行くのを見た。扉がしまると共に、生物と変じたそれ等の召使達の中に、この小男をひとり残しておくのは何んとなくおそろしいような気がするのであった。
 一番下まで降りてみると先きのシャツ姿の男が手桶をもって何やらしていた。アンガスは立止って、その男に多分の賄賂を握らせて、彼が探偵を連れて戻って来るまでその場を離れぬように、そして、どんなに変った人間がこの家の階段をのぼって行くか、皆覚えているようにという約束を与えた。それから玄関へ差かかると、アンガスは玄関口の使丁にも同じ監視の約束をさせた。なお彼はこの男から、この家には裏口のない事を知った、しかし、これだけではまだ安心が出来ないので彼は、ブラブラしている巡査をつかまえて、玄関口の向側に立って監視しているようにと説き伏せた。最後に彼は栗売男の店に立止ってわずかの栗を買った、そして、栗売がおよそ何時頃までこの附近に店を出しているつもりかを訊ねた。
 栗売は上衣の襟を立てながら、どうもこの分では雪が降りそうだから、まもなく店をしまうつもりだと云った。実際、黄昏の空は次第に灰色に、そして陰惨になるつつあった。しかしアンガスは、言葉をつくして、その大道商人をその場所に釘づけにさせようとつとめた。
「まア店の栗でも食って温まっているさ」とアンガスは真顔でいった、「なにそれをみんな平らげても構わんからね。僕が戻って来るまでここに居ってくれたら十円あげるぜ。そら、あの使丁の立ってる家の中へ男でも、女でも、子供でもはいって行ったらそれを僕に教えてくれればいいんだ」
 それからアンガスは足早に歩み出した、最後にこの護衛された高楼を見あげながら、
「僕はとにかくあの室を包囲した。まさかあの四人がウェルキンの手下ではあるまい」と彼は独言をいった。
 ラクノー館はヒマイラヤ館のある高台よりも一段低い所にある。フランボー氏の半官的事務所はその第一階にあるが、あらゆる点において「雇人いらず」の部屋のアメリカ趣味的、機械的、冷たいホテル式の贅沢さとは著るしい対照をないていた。アンガスの友人であるフランボーは彼の事務所の奥の芸術的なロココ式私室へアンガスを通した。そこには軍刀や、古代の鏡や、東洋の骨董や、伊太利《イタリー》酒の壜や、野蛮人の使用する料理鍋や、羽毛のような毛の生えた一匹のペルシャ猫や、そして小さい薄汚い、どう見てもこの場所に相応しくない一人の羅馬加特力《ローマカトリック》の坊さんが居た。
「この方は友人の師父《しふ》ブラウンです」とフランボーがいった。「かねがね君に紹介しようとは思っていたのだ。今日はどうも大変なお天気だねえ、僕のような南国人にはちょっとこたえるねえ」
「そう、しかし降るような事もないだろう」アンガスが菫色の縁どりをした東洋風の安楽椅子にすわりながらいった。
「いや、雪が降り出した」と坊さんは静かにいった。
 そして、実際、あの栗売が予言したように、白いものがチラチラと暮れ行く窓硝子に漂った。
「さてフランボー君」とアンガスは口重にいった、「実は僕用件があって来たんだが。それは少し気味の悪るい事件なのでねえ。というのは、この家から目と鼻のところに、気味の助けを至急に要している男が居るのだ。その男はいつも絶えず眼に見えない敵に襲われたり脅迫されたりしているのだ。そしてその悪者をまだ誰も見た者がないというんだが」アンガスは話を進めて、ローラの物語や、また自分自身の事、人気ない四角で幽霊のような笑い声のしたということや、人気のない室《へや》で怪しい人声をはっきりと聞いたということなど、またスミス対ウェルキンの紛糾《いきさつ》を残らず話してきかせると、フランボーは次第に昂奮して来て、傍らの小さい坊さんは、ちょうど家具か何かのように、取残された形になった。話しが飾窓の上に早書きにした印紙の縦列が貼附けてあったと言う所に来るとフランボーは部屋全部にその大きい両方の肩をふくれだすような恰好で立上
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