「だからっ」
 土方は、大声に叫んで立つと同時に、びゅ−んと、耳を掠《かす》めた。その音と一緒に、折敷になって
「誰か、周平っ」
 と、叫んだ。一人が、周平の手をとって肩へかけようとしていたが、二人共、倒れてしまった。
「誰かっ」
 一人も、周平の所へ行く者が無かった。

      二

「もっと伏して」
 敵の前で、尻を敵に見せて、這いながら退却する事は、新撰組の面目として出来る事でなかった。人々は、後方へ後方へと、すさり始めた。
(危かった)
 一人は、今、自分が伏していた所へ、弾丸がきて、土煙の上ったのを見ると、周章《あわ》てて四つ這いに、引下った。
「周章てるなっ、見苦しいっ」
 一人が、後方から、尻を突いて叫んだ。
「見苦しい。お互様だ」
 一人は、隣の人に
「俺の甲《かぶと》は、明珍《みょうちん》の制作で、先祖伝来物だが、これでも、弾丸は通るかのう」
 首を伏せて、鎧の袖を合せ乍《なが》ら、こう聞いたので
「さあ」
 と、答えた刹那《せつな》、明珍の甲をつけた男は、甲の上から、両手で、頭をかかえて、唇を歪《ゆが》めた。
「やられたかっ」
 男の顔を見ると、苦痛で、顔中をしかめていた。
 最後の列の兵は、素早く、軒下へ飛込んで、軒下づたいに逃出した。一人が、敵へ尻を向けて、大急ぎに、四つん這いに這い乍ら、逃出すと、二人、三人、と、周章てて、這い出した。
「見苦しいぞ、磯子、鈴木っ」
 軒下の兵が、軒下を伝って逃げ乍ら、敵に尻を向けて這っている兵へ、怒鳴《どな》った。兵は、黙って、もっと急いで、手足を動かした。
 御香ノ宮の敵は、新撰組の退却するのを見ると、塀から、次々に乗越えて、槍をもって進んできた。
「止まれっ」
 土方が叫んだ。
「出たっ」
「出たっ」
 口々に叫んで立上った。塀の上に、又白煙が、いくつも、横に並んで、森の中へ消えていった。十四五人が、鬨《とき》を上げて、走り上ると、敵は、周章てて、塀の中へ、隠くれてしまった。そして、銃声が、硝煙が、激しくなった。
「伏せっ。長追いすなっ」
 走って行った七八人の半分は、軒下へ逃込み、半分は倒れて、よろめきつつ、這って逃げてきた。
「卑怯《ひきょう》なっ」
 と、一人が、赤くなった眼で、敵を睨んだ。
「味方の鉄砲隊は?」
「ここは、新撰組一手で戦うと云ったから、墨染の方へ廻ったらしい」
「使を出して――」
「馬鹿っ、鉄砲隊に、あれだけ威張っておいて、今更頼みに行けるか」
 人々は、怒りと、無念さと、屈辱とに、逆上しながら、じりじり這って退いた。
 正月元日だった。吹き下してくる風が、凍っていて、時々、顔へ砂をぶっかけた。硝煙の臭が、流れてきた。
 鎧が、考えていたよりも重いし、這うのに、草摺《くさずり》が邪魔になった。袴をつけている人は、平絹の、仙台平《せんだいひら》のいい袴を土まみれにしていたし、黒縮緬の羽織に、紐《ひも》をかけ、竹胴をつけている人は、水たまりに袖を汚していた。
 組の者の外に、誰も見てはいなかったが、敵の前で、這っているのを、自分で、苦笑し、侮蔑《ぶべつ》し――だが
(次の戦いで)
 と、思って、慰めていた。土方が
「上村、貴公、鉄砲が打てるか」
 と聞いた。
「打てませぬ」
「竜公、貴様は?」
「あんな物位、すぐに――」
 土方は大声で
「組に、鉄砲の打てる者はいるか」
 と、這い乍ら叫んだ。
「三|匁玉《もんめだま》なら」
 遠くで答えた。
「スナイドルか、ジーベルじゃ」
「毛唐の鉄砲は、打てん」
「誰もないか」
 誰も答えなかった。

      三

 誰も、物を云わなかった。敗兵が、その中を、走り抜けようとして、倒れると
「馬鹿っ」
 突倒したり、なぐったりした。
「何をっ」
 起上ると、睨みつけたが、新撰組の旗印をみると、すぐ、走ってしまった。
「もうこれきりか」
 前と、後ろとに「撰」と大書した四角い旗を立てていたが、その旗へ集った人々は、八十人しか無かった。二百五十人余で、伏見の代官役所から打って出、百七十人、御香ノ宮で、一槍も合さずに討たれたのだった。
 それから、橋本で退却して、夜戦に、いくらか戦ったが、誰も鉄砲の音がすると、出て行か無くなってしまった。
 枚方《ひらかた》へくると、敗兵が、堤《どて》の上に、下の蘆《あし》の間に、家の中に、隊伍《たいご》も、整頓もなく騒いでいた。大小の舟が、幾十|艘《そう》となく、繋《つな》がれていたが、すぐ一杯になって、次々に下って行った。
 舟番場の所には、槍が閃《ひらめ》いていて、大勢の人が、何か叫び乍ら、兵を押したり、なぐったり、突いたり、槍を閃かしたりしていた。
 堤の上を川沿いに、よろよろと、黒くつながり乍ら、下級の兵が落ちて行っていた。
「除《の》けっ」
「新撰組だっ」

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