るに足る位に使えるようになった。勢源が強いと云った所で、小次郎がやや相対しうる位に使えると云った所で、どの位の程度か判らないが、外の者と比較するには梅津某でも取ってくるといい。この人は飯篠家直の歿後、同門中に有って手に立つ者が無く相弟子の多くがその門下の礼をとったと云うのだから相当に上手であつたとは窺える訳である。美濃の国にも手の立つものがない。義竜それを無念として、折よく遊歴して来ていた勢源に三度礼を厚くして立合ってもらったのである。この二人の勝負はてんで問題にならなかった。小次郎と武蔵の立合なんかより遥かに余裕あって勢源は勝った。従って十五六にして「粗々《ほぼ》技能有《ぎのうあり》」と伝えられている位、師に対抗出来た小次郎は立派な達人であったらしい。武蔵が「天晴れな若者」と惜しんだのも尤《もっと》もである。
 後に五郎左衛門勢源の跡を継いだその弟富田治部右衛門を美事に打込むと共に、勢源は「岩流」を樹つる事を許した。「岩流」又は「巌流」とかく。信頼すべき書「二天記」によると「その法最も奇なり」と有るから、独創の攻防法を編出していたものと見える。一流を樹てると共に彼は諸国巡歴の旅に上っ
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