し》めている。従って、武蔵はこう云う批評に対して答える必要は無かったであろうし、あるいは後世の人が批評した非難で当時の噂でなかったかも知れない」
後年熊本に於いて当時の試合の話が出て、さる人が、
「小次郎の鋩子尖《きっさき》が貴殿《あなた》の眉間を傷つけたそうで御座るが」
と云った時、武蔵、燭台をとって面《おもて》へ近づけつつ、惣髪にしている額を撫で上げつつ、
「よっく御覧なされ、幼い時腫物をして少しあとが御座るが刀傷があるか無いか」
と、その人の所へ幾度も差《さし》つけたので、この者大いに弱ったと云う話がある。武蔵の詳伝はいつか書きたいが、この人の武芸の何処辺まで到っていたかと云うに就て面白い話がある。後《のち》細川三斎に召されて登城し、
「当家中にて貴殿の御眼識《おめがね》に叶った者御座ろうか」
と云われた時、武蔵が、
「只今、式台の所にて一人見受け申した」
と答えた。左右に居流れている中を物色したが、その者が見えぬので、諸士溜所へ自分で立って行って都甲太兵衛《とごうたへえ》と云う者をつれてきた。そして太兵衛に、
「御身の平生の覚悟は」
と聞いた、太兵衛の辞するを強いてと云うので、
「別に覚悟とて持ちませぬが、常に死の座に居ると云うつもりをして居りましたところ、最初の裡《うち》は死という事が離れにくく、覚悟をしながらも死と睨めっこする中《うち》いつか、死の事は忘れ果て、今は死の事など存じもよりませぬ」
と答えた、武蔵|之《これ》を聞くと共に、
「これが兵法の極意に御座ります」
と申上げた。式台に坐っている多勢の士《さむらい》の中から、この覚悟で生死の境を超脱している都甲太兵衛を、一目で見出したと云う事は一寸《ちょっと》想像もつかぬ恐ろしい話である。武道の士の心懸として「霜の降る音が判る」とか「背後《うしろ》に迫る人の気配を感じる」とか、吾々の想像も出来ぬ感覚をもった話が残されているが私は事実であると思う。
正保二|乙酉《きのととり》年五月十九日、熊本で死んだ。養子宮本伊織の建てた碑が未だに小倉市外に立っている。
底本:「仇討二十一話」大衆文学館、講談社
1995(平成7)年3月17日第1刷発行
1995(平成7)年5月20日第2刷
入力:atom
校正:柳沢成雄
2001年5月12日公開
2004年2月6日修正
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