舟遊びに参ろうか」
と、里恵の心を察して、気晴しに連れて行って、何一つ、又五郎の事は口にしなかった夫。
その夫が兄の為に、助太刀をしなくてはならぬ――と、家中の人々の噂は、里恵に、二重の苦しみを与えた。夫と別れる悲しさ、そうして、そんな兄の為に、そんな事をしなくてはならぬ侍の義理と、又五郎の妹という苦しさ。
(きっと、夫は、助太刀に行くであろう)
里恵は
(自分にからまる義理?――それは、何んな事? 自分は兄を兄とも思っていないし、助太刀所か、兄の首を討って、夫の手柄になるなら、兄を討ってもいい、とさえ考えているのに、その妹に、義理が、からまるとは? 妾は、そんな義理など、少しも考えていないのに――そんなことの為に、夫が妾へ、義理を立てる? それは、世間体もあろうが――世間体、武士の義理。そんな物が、そんな物が)
里恵は、兄の又五郎が、好もしい男なら、自分から、夫に、助太刀をしてやって下さいと、云えたが、それさえ云いたくない兄への反感。それに、その妹への義理立てをしなくてはならぬという世間――。
(何という、訳の判らない世間であろう)
里恵は、そう考えていたが――だが、武士の娘であった。いや、半兵衛の女房であった。彼女は、家中に対する夫の面目の為に、いつでも、発足できるよう、新らしい旅仕度を調えながら――だが、泣いていた。
四
「里恵」
そう云った夫の眼、夫の口調、それから、その正しい坐り方に、里恵は
(今日は?)
と、そう思っただけで、もう胸の中が、固くなってしまった。
「又五郎殿の、助太刀に出る」
里恵は、俯《うつむ》いた。
「兼々、家中の噂を存じておろう。然し、わしは、噂によって、噂に押されて、嫌々ながら、助太刀に出るのでは無い。形は、助太刀であるが、心は、荒木又右衛門なる者と一手合《ひとてあわせ》したいからじゃ。お前にだけは、打明けておくが、荒木も、郡山で二百石、わしも二百石。その荒木が、今度存じておろう、将軍家の御前試合に出た。同じ二百石であり乍《なが》ら、将軍家の前へ出られるのと、出られぬのと、どんな違いがあるか? それを天下に示したい。又五郎への助太刀は、士道の表向の意地立てだけだ、わしは気が進まぬし、断る口実は立派にある。ただ、形だけの事で、わしは出たくも無いのに、家中の虫けらに、評判されたからとて出て行く程の小心者でも無い。然し、同じ二百石でも、御前試合へ出る二百石と、出ない二百石とは、格段の相違があろうと云われたのは心外だ。殿に対して、わしは、わしの値打を示さぬと、二度と、この二百石は頂戴しかねる。それに、今出ぬと、半兵衛め、あれ見よ、荒木が御前試合に出る位強いから、同じ二百石取りであり乍ら、怯じ気がついて出ないのであろうと云われるのも、無念だ。わしから進んで――誰が、何と申そうとも、今度は出る。覚悟をしてくれ」
里恵は、すぐ、涙の落ちそうになる眼を伏せたまま、黙って立上ると、押入れの襖を開けた。そして、一包の物を持出してきて
「旅仕度で、御座ります」
と、いうと、はらはらと、涙が落ちた。
「兄への助太刀の為と仰しゃれば、一度はお止め致す所存で御座りました。なれど、妾の覚悟を示す為としては、これ、この通り、ちゃんと――」
と、云って、風呂敷を開くと、合羽、脚絆、道中服が揃えてあった。
「いつ――御出立になりますか、と、そればかり、毎日毎日――」
半兵衛は、妻の涙を、じっと、見つめていた。
「お帰りの時のお顔色、お出ましの時のお顔色、そればかりを見ておりまして、御留守の間には、旅仕度を、只今もこれにて、腹巻を縫うておりましたが、未練ながら、これが、今生《こんじょう》での、お別れになるかと思いますと、生きているのも果敢《はか》なく覚えますが、然し、武士の妻として、いつでも、御出立出来るように、用意は――」
と、云って、真綿入りの肌襦袢、刺子《さしこ》の股引、それから立って行って、腹巻に、お守札の縫込んだのを出してきて
「首尾よく、荒木に、お打勝ち下されますよう――又、又――」
里恵の声は、顫えて、脣《くちびる》は痙攣《けいれん》していた。
「時の運にて、御不利になりましょうと、背に傷を受けず、御立派に――」
と、まで云うと、しゃくり上げて、袖の中へ、顔を包んでしまった。離れ難い、愛着の心を、武士の妻として、立派に処置している若い里恵の泣いている姿をみると、半兵衛は何故かしら、又五郎が憎くて、耐らなくなってきた。
(己が、人殺をしておいて、己の命を助かりたさに、この罪もない妹を、こんな目に逢わせ、わしをも、生死の境に置いて――)
と、思うと、明らかに、形の上に於て助けに行く又五郎であるのに、心の中では、軽蔑し、憤った。そして
(わしは、わしの為に、行くのだ。又五郎の為に
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