男は家庭生活に向く男ではなかった」こういって彼は口を閉じてそのまま彼の足元にうなだれている女の頭の真上にあたる壁をジット見つめた。戸外の二人はこの老人を殺されたスティーフンと面だちが似ているのを見て、さては[#「は」は底本では「わ」]と思った。
やがて老人の双の肩が高まって、咽喉《のど》がむせでもするようにブルブルとゆすれた。が顔の表情は少しも変らなかった。
「ヤッ畜生笑っていやがる。」としばらくしてフランボーがこう叫んだ。「どれこの辺で帰るとしようか」といった師父ブラウンの顔は全く青かった。「なあフランボー君早やくこの地獄屋敷を退散しよう。もう前の正直な舟が恋しくなったよ」二人が島を漕出た時、夜の暗黒の幕は既に岸辺の川面にたれ下っていた。
[#空白は底本では欠落]二人は闇の中を川下へと下った。二人のすう二つの大きな葉巻《シガー》が舟の中で紅色の舷灯《げんとう》のように燃えた。師父ブラウンはその葉巻《シガー》をちょっと口から取ってこう云った。
「まあフランボー君もはや君にもこれで話しの始終が解ったと思うが、つまりだね、筋はとても簡単なんだ。一人の男が二人の敵を持っていた。その男は悧巧でなあ、えいかね、それでつまり、敵が二人いるのは一人しかいないより結句|幸《さいわい》だという事を発見しおったんじゃ」「どうもはっきりしませんなあ」とフランボーが答えた。
「いや、深く考えるから駄目じゃて。いいか極めて簡単なんじゃ、もっとも、ちと無邪気ではないがな。あのサレーダイン兄弟は揃も揃ってろくでなしなんじゃ。しかし公爵、すなわち兄の方が上の方へ[#「へ」は底本では「え」]上がる、ろくでなしなら、弟すなわち大尉は底の方へ沈むろくでなしなんじゃ」
「大尉は零落の揚句、乞食や強請者《ゆすりもの》のまねもした。そしてある日兄公爵をうまくとっちめた。これが、公爵にとっては運のつきだったんだ。平たく云えばスティーフンは文字通りに兄の頸に綱をかけたのじゃ、彼はどうかした拍子でシシリヤ事件の秘密をかぎ知った。ポウルが山中で老アーントネリを虐殺した顛末をお恐れながらと訴出ることの出来得る男となった。大尉はせしめた口笛金で十ヶ年も放埓の限りをつくして、最後に公爵のすばらしい財産もどうやら阿呆臭く見えるまでになった。
「けれども、公爵はこの吸血鬼のような弟の外に今一つの重荷をになわんければならなかった。彼は老アーントネリの息子が殺害事件の当時はホンの幼児にすぎなかったが、だんだん長ずるにおよんで、野蛮《やぼ》なシシリヤ式の道義一点張りの教育で訓練された結果、親の仇《あだ》を、それも絞首台上へ送ろうとはせず昔風に復讐の剣によって、復讐せんために生きとると云う事を知った。少年は剣道を学んでその技神に達したが、もうこれでいよいよという年頃になるとサレーダイン公爵が旅に出た事を新聞で知った。公爵は事件にあらわれた犯人のように逃げはじめた。いかんせん、身は腹背に敵を受けておったのじゃから、アーントネリの追跡をくらまそうとその方に金を使えば使うほどスティーフンの方の鼻薬が薄くなる。弟の方の鼻薬を余計にしようとすればアーントネリ[#「リ」は底本では「ル」]の備えが薄くなる。いいかね、彼が偉人となったのは、そしてナポレオンのように天才を発揮したのは、この時だったんじゃ。
「彼はもはや二人の敵と戦うことをやめて、突然彼等の軍門に降った、彼は日本の力士のいわゆるウッチャリの手のように一とねり体をひねったんだ。ために、両個の敵はもろくも彼の前にのめった。すなわち彼は世界を舞台としての競技を断念し、青年アーントネリには隠れ家を白状しまた弟スティーフンには何もかも引渡したんじゃ。彼はスティーフンに流行の着物をととのえかつ楽な旅のよう出来るだけ金を送って添手紙には簡単に書いてやったんだ。
『これがのこった全部だ。御前は兄を丸裸にした、ただノーフォーク州にしっ素な家があるだけだ、もしこの上も御前が俺から何《な》にものかを絞り取る気なら、この家《や》を取る外はあるまい。望むなら来て占領した方が好い。俺はここに御前の友人なり支配人なりとしてひっそり生活するであろう』
「彼はかの青年シシリヤ人が彼等兄弟の肖像画は見たであろうが、まだ顔は知らないという事を知っておった。兄弟が共に尖った胡麻塩髯をつけておって、幾分似通っている事も知っておった。そこで彼は髯を綺麗に剃落してアーントネリの出現を今か今かと心待ちに待っていた。陥穽が成功した。弟は新調の衣裳にくるまって公爵顔をしながら大手をふって乗込んで来たのが運のつきでついにシシリヤ人の剣に倒れたんじゃ。
「しかし彼の細工にただ一つけっ点があった。それはしかしこの人性のためにかえって名誉としなければならない、サレーダイン如き悪人は往々にして『人の性や善
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