待の張本人は公爵の弟であるらしくその名を口にする時だけは、さすがにカンテラ形な老給仕頭の顎もグッと寸が延び、鸚鵡《おうむ》の嘴《くちばし》のような鼻にもフンといったような皺が走った。そのステフィーン大尉は手のつけられぬやくざ者で、何百何千という兄公爵の金を干した上、兄にせまって賑やかな社交界をすてて、この片田舎に隠遁させたのであった。これが給仕頭の老ポウルのしゃべった全部で、ポウルは明らかに公爵の味方であった。家政婦の方は前者の様にむっつりやでもなく不平家でもないらしい。ブラウンはこう思った。彼女が主人に対する調子にはどこかに酸味をもっているくらいのところだった。
もっともある程度の畏敬を交えていないのでなかったが。フランボーと師父とが側《そば》の鏡の前に二少年を描いた赤いスケッチ画を見ていると、家政婦のアンソニー夫人が何か用事でもあると見えて、滑る様に部屋の中に入って来た。で師父ブラウンはふりむいてみる必要もなく、折柄この家の家族について二三の品評をしていたのを途中からばったりやめてしまった。がフランボーの方は顔を画《え》の中にほとんどうずめておったのでアンソニー夫人が入って来たのに気がつかずに既に大声で次のような事をしゃべっておった。「これはサレーダイン兄弟と見えますな、師父、二人共いかにも無邪気な顔附きをしている、いやこれではどちらが善人でどっちが悪人だかわからないて」とここまで話出した時彼は女が背に来ている事を知ったので後はいいかげんな雑談にまぎらわしながら庭の方へ出て行った。けれどもブラウンだけはなおも一心にその画に見入っていた。するとアンソニー夫人の方でも永いこと一心に師父ブラウンの姿を見ていた。
彼女は大きな悲劇的ともいうべきな茶褐色の眼の持主である。その橄欖《オリーブ》色の顔は変に息苦しそうな驚きに燃え立っていた。この見知らぬ男はどういう素性の男だろうか、そしてまた何んの用があって来たのだろうと考えているように。してまた坊さんの法衣を見、宗派を知って故郷の伊太利《イタリー》で近づきになった懺悔僧のことでも想い出したのか、ただしはブラウンが連れの男よりも物識りらしいと見てとったのか彼女は小声で、その兄弟が揃って悪人だという事をしゃべり出した。「あの御連れ様のおっしゃる事は半分は確かに当たっておりますよ。あなた、あの方はこの兄弟はどちらが善人でどちらが悪人だか見別《みわけ》がつかないとおっしゃいましたが、本当に善人の方を見分けるのはむずかしいんでございますよ」
「はあ! わしには一向にわかりませんが」ブラウンはただこれだけ答えるとそのまま部屋を出ようとした。けれども彼女は一歩彼の方へ身を乗り出した、眉をひそめ、そして、牡牛《おすうし》が角《つの》を低めて身構でもするような獰猛な格好に身を屈めながら。
「いえ、当家には善人など一人もおりませんで御座いますよ」女は吐息を洩らしながら云った。「そりあ大尉さんにしても、お金をしぼりとろうとなさるのは、決して誉めた仕打とは言えませんが、とられる方の公爵様にしたって、そりゃア善くない点があるのでございますからね。何も大尉さん一人で公爵をいじめていらっしゃるんではないんです」
「強請《ゆすり》かな」という一語がつづいた。が、その時女はヒョッコリ肩越しに背後をふりかえってみて、今少しで倒れんばかりに吃驚したのである。その時|扉《ドア》がスーッと開《あ》いて、入口に蒼ざめた顔をした給仕頭のポウルが幽霊のように立っていた。場所は鏡の間である。さながら五人のポウルが五つの入口から一時に入込《いりこ》んだかのように、薄気味悪く思われた。
「御前様がお帰りあそばしました」と彼は云った。
三
その瞬間、一つの姿が第一の窓の外を通った、続いて第二の窓を通ると、その通行する鷲のような輪廓を幾つかの鏡が炎のように次々にとうつして行った。彼は姿勢が正しく、そしてすきがなかったが、毛髪には霜をおき、そして顔色は妙に象牙のように黄いろっぽい。鼻は禿鷹の嘴のような羅馬《ローマ》鼻で、一般の場合この鼻には附き物の肉のこけ落ちた長い頬と顎を型の如くに備えてはいるが、これ等の道具立ては半ば口髭でおおわれているのでいかめし気に見えた。その口髭は顎髯よりははるかに黒くて、幾分芝居じみていた。彼の服装は、これも同じく芝居がかりで、白い絹帽をかぶり、上衣《うわぎ》には蘭《らん》の花をかざし、黄色い胴衣を着、同じく黄色い手袋を歩きながらパタパタやったり振ったりしていた。やがて彼が玄関の方へ廻ると、鯱鉾《しゃちこ》ばって出迎えるポウルの扉《ドア》を開ける音や、帰着した公爵が、「ア御苦労々々今戻った」という声が聞えた。ミスター・ポウルは頭をさげながら、何事かヒソヒソと主人に答える様子であった。数分間は
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