った。彼は老アーントネリの息子が殺害事件の当時はホンの幼児にすぎなかったが、だんだん長ずるにおよんで、野蛮《やぼ》なシシリヤ式の道義一点張りの教育で訓練された結果、親の仇《あだ》を、それも絞首台上へ送ろうとはせず昔風に復讐の剣によって、復讐せんために生きとると云う事を知った。少年は剣道を学んでその技神に達したが、もうこれでいよいよという年頃になるとサレーダイン公爵が旅に出た事を新聞で知った。公爵は事件にあらわれた犯人のように逃げはじめた。いかんせん、身は腹背に敵を受けておったのじゃから、アーントネリの追跡をくらまそうとその方に金を使えば使うほどスティーフンの方の鼻薬が薄くなる。弟の方の鼻薬を余計にしようとすればアーントネリ[#「リ」は底本では「ル」]の備えが薄くなる。いいかね、彼が偉人となったのは、そしてナポレオンのように天才を発揮したのは、この時だったんじゃ。
「彼はもはや二人の敵と戦うことをやめて、突然彼等の軍門に降った、彼は日本の力士のいわゆるウッチャリの手のように一とねり体をひねったんだ。ために、両個の敵はもろくも彼の前にのめった。すなわち彼は世界を舞台としての競技を断念し、青年アーントネリには隠れ家を白状しまた弟スティーフンには何もかも引渡したんじゃ。彼はスティーフンに流行の着物をととのえかつ楽な旅のよう出来るだけ金を送って添手紙には簡単に書いてやったんだ。
『これがのこった全部だ。御前は兄を丸裸にした、ただノーフォーク州にしっ素な家があるだけだ、もしこの上も御前が俺から何《な》にものかを絞り取る気なら、この家《や》を取る外はあるまい。望むなら来て占領した方が好い。俺はここに御前の友人なり支配人なりとしてひっそり生活するであろう』
「彼はかの青年シシリヤ人が彼等兄弟の肖像画は見たであろうが、まだ顔は知らないという事を知っておった。兄弟が共に尖った胡麻塩髯をつけておって、幾分似通っている事も知っておった。そこで彼は髯を綺麗に剃落してアーントネリの出現を今か今かと心待ちに待っていた。陥穽が成功した。弟は新調の衣裳にくるまって公爵顔をしながら大手をふって乗込んで来たのが運のつきでついにシシリヤ人の剣に倒れたんじゃ。
「しかし彼の細工にただ一つけっ点があった。それはしかしこの人性のためにかえって名誉としなければならない、サレーダイン如き悪人は往々にして『人の性や善
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