がないお蔭だなどと私は思つた。
 津民の停車場を汽車が動き出したと思つた時、一隅に寝てゐた男はふと身を起して、
「今のは津民ですか?」
「さうです……」
 窓の外を覗いたり何かしてゐたが、それと知つて慌てたらしく、そのまゝ急いで下り口の方へ行つたが、「あぶないですよ!」と女や母親が心配して声をかけるのも聴かずに、そのまゝばた/\飛んで下りた。
 女は立つて行つたが、覗いて見て、「まあ、乱暴なことをするのね、飛び下りたんですよ。」
「何うかしやしないかしら……危ないねえ。」
 かう母親も言つた。
「なアに、速力が遅いから大丈夫ですよ。」
「でも、ね、乱暴ねえ、何うかしやしないかしら、怪我でもして倒れてゐやしないかしら――」かう言つて母親はおぼろ月夜の路を窓から覗いた。
 柿坂の停車場は灯に明るかつた。それに、空には月がおぼろに見えて、山村の藁葺の尖つた屋根や、灯にかゞやいた停車場の旅舎や、周囲をめぐる山などがそれと見えた。水声はあたりに響くやうにきこえた。
 かぶと屋――かう言つて尋ねて街道筋の或る古い旅舎まで私達は行つたが、「別荘の方へ」と言はれて、宿の提灯に案内されて、雨後の泥濘の路を渓声の高い方へと私達はたどつて行つた。
 夜露にぬれた叢があつたり、田の畔のやうな足元のわるいところがあつたりして、女は度々声を立てたが、漸く私達は新しく建てたらしい深樹の中の灯の美しく見える二階屋へと案内された。
 しかし来るのが遅かつたので、二階はみんなふさがつてゐた。「まア、兎に角」と言つて通された処は、宿の人達のゐるつゞきで、其処にすら浴衣がけになつた客が既に一人控へて居た。失望したけれども、何うするわけにも行かなかつた。かうした山の中に来ては、そんな贅沢なことは言つては居られなかつた。
 しかし茶代を下した効目で、前にゐた客は、本店の方に行くことになつて、兎に角その一間は私達の占領することが出来るやうになつた。それに、宿の主人夫妻が何彼と深切に歓待して呉れた。後には、母親は「田舎の親類にでも招ばれて来たやうな気がしますね。」などと言つた。
 私は女と一緒に闇の中を渓の畔まで出て行つたりした。二階の灯は静かに新緑の中に青く見えた。
 風呂は五右衛門風呂であつた。母親は出て来て勧めたけれど「私はよすわ。」と言つて女は遂にそれに入らなかつた。女は金盥に一杯湯を貰つて体を拭いた。
 室が家の人達の室と続いてゐるので、亭主や上さんや子供達は遠慮なく私達の室に入つて来て話した。実際、母親の言葉通り、何処か田舎の親類へでも呼ばれてゐるやうな気がした。室の隅には耶馬渓焼の廉い陶器や、西行の像を焼いた玩具や、いろ/\なものが客に売るために置いてあつたが、七八歳になる男の児は、父親の此方に来て話してゐる傍に、それを持つてやつて来て、「西行さん、坊さん、西行さん、坊さん」などと言つた。
 夜は静かに更けた。水声が私達の枕を撼《ゆるが》すやうにした。
 あくる朝は早く起きた。幸ひに天気は好かつた。さわやかな朝日の光線は深く谷の中までさし込んで来た。深樹の緑に置いた朝露はキラ/\と美しく光つた。
 宿の亭主は私達を案内して、山陽の筆を擲つたといふ渓の畔へと伴れて行つた。二階の客の発つたあとでは「お構ひもしなかつた。」と改めて私達をそこに導いて、津民谷で獲れた鰻などを馳走した。あつさりしてゐて旨い鰻であつた。
 帰る時には、亭主はその男の児を伴れて、停車場までわざ/\送つて来て呉れた。茶代の影響とは言へ、流石は山の中の質朴さであつた。「本当に、初め行つた時は、こんな山の中の家に泊るのかと思つたけれど、却つて呑気で好かつたわねえ、旅はこれだから面白いのねえ。」かう女は言つた。
 実際さうであつた。昨夜は福岡で大尽でもあるかのやうな派手な泊り方をした。その前の宮島でも矢張さうであつた。それがかうして質朴な山中の旅舎に泊るといふことも旅なればこそと思はれた。
 帰りには私達は窓から顔を離さなかつた。昨夜闇にすぎた谷には、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るやうな美しい瀬が、そこにも此処にもあらはれてゐた。津民川の流れて落ちるあたりは殊に感じがすぐれてゐた。五竜の滝は白い波頭を立てゝ見事に砕けてゐた。
 次第に私達は山を出て行つた。


 耶馬渓はしかし矢張天下の名勝たるには恥ぢなかつた。
 或はこれを球磨川の峡谷に比す、或はまたこれを熊野川の谷に比す、乃至はまた東北信飛の深い渓山に比して見る、さうして見れば、無論余りに浅い谷、余りにあはれな谷、余りに世間化した谷のやうに思はれるに相違ないが、しかしさうして比較して見るのは、初めて接した時の心持で、単にさうした比較で片附けて了ふことの出来ないやうな価値が、二度行き三度行く中に、次第に私の心に飲込めて来
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