つて居《ゐ》て、十|町《ちやう》と隔《へだゝ》つては居《ゐ》なかつた。其《その》近所と思はれる処《ところ》に行くと、野菜の車を曳いて、向ふから男が遣《や》つて来る。
『官軍の墓地は何《ど》の辺《へん》になりませうか』
 と訊《き》くと、
『官軍の墓地? 何《なん》ですか、それは!』
 と要領を得ぬ答である。
 これこれと説明して聞かせると、それならこの向ふにあるのがそれだらうとのことである。
 私《わたし》は裏道に廻《まわ》つて見た。此処《こゝ》はつい此間《このあひだ》まで元《もと》の停車場《ていしやぢやう》のあつた処《ところ》で、柵などがまだ依然として残つて居《ゐ》た。片側は人家がつゞいてゐるが、向ふは田畝《たんぼ》になつて了《しま》ふので、私《わたし》はまたある家《うち》に立寄つて聞くと、このすぐ向ふだといふ。
 成程《なるほど》、墓地らしいものが田の中《なか》にあつた。周囲に柵が繞《めぐ》らしてある。
 それを少し離れて、二三|軒《げん》の瓦屋根があつて、それに朝日がさした。小さい工場《こうば》の烟筒《えんとつ》からは、細い煙が登つて居《ゐ》る。向ふの街道には車の通る音が絶えず聞える。
 田圃道《たんぼみち》にはまだ朝の露が残つて居《ゐ》た。私《わたし》の足袋はしとどに濡れた。辛《から》うじて、瓦屋根の、同じ門のつくりの、鉄道の役員の官舎らしい家《いへ》の前に来ると、其処《そこ》の傍《そば》に車井戸があつて、肥つた下女が朝日を受けて、井戸の鏈《くさり》を音高く繰《く》つて居《ゐ》た。私《わたし》は今一|度《ど》訊《たづ》ねて見た。其《その》下婢《かひ》も矢張《やはり》鍵を預《あづか》つて居《ゐ》る家《うち》を知らなかつた。けれど態々《わざ/″\》家《いへ》に入つて聞いて呉《く》れたので漸《やうや》く解《わか》つた。
 鍵を預《あづか》つて居《ゐ》る人は、前の街道を一二|町《ちやう》行つた処《ところ》の、鍛冶屋《かぢや》の隣の饅頭屋《まんぢうや》であつた。場末の町によく見るやうな家《いへ》の構《つくり》で、せいろの中《なか》の田舎|饅頭《まんぢう》からは湯気が立つて居《ゐ》る。上《かみ》さんは手拭《てぬぐひ》を被《かぶ》つてせつせと働いて居《ゐ》た。
 朴訥《ぼくとつ》な人の好《よ》ささうな老爺《おやぢ》が、大きな鍵を持つて[#「持つて」は底本では「持って」]私《わたし》の前に立つた。私《わたし》は線香と花とを買つた。
 一歩毎《ひとあしごと》に老爺《おやぢ》の持つた鍵がぢやらぢやらと鳴る。
 今度は正面から入つた。
 街道の傍《そば》に『官軍改修墓地』といふ木標《もくひやう》が立つてゐたが、風雨に曝《さら》されて字も読めぬ位《くらゐ》に古びてゐた。石の橋の上には、刈つた藺《ゐ》が並べて干してあつて、それから墓地の柵までの間《あひだ》は、笠のやうな老松《らうしよう》が両側から蔽《おほ》ひかゝつた。
 老爺《おやぢ》は門の鍵を開けた。
 幼い頃見た写真がすぐ思出《おもひだ》された。けれど想像とは丸《まる》で違つてゐた。野梅《やばい》の若木が二三|本《ぼん》処々《ところ/\》に立つて居《ゐ》るばかり、他《た》に樹木とてはないので、何《なん》だか墓のやうな気がしなかつた。夏の日に照《てら》されて、墓地の土は白く乾いて、どんな微《かす》かな風にもすぐ埃《ちり》が立ちさうである。私《わたし》の記憶も矢張《やはり》この白い土のやうに乾いて居《ゐ》た。

 数多い墓の中《うち》から、漸《やうや》く父の墓をさがし出して其《その》前に立つた。墓は小さな石で、表面に姓名、裏に戦死した年月日《ねんぐわつひ》と場所とが刻んであつた。
『分りましたかな』
 一緒に探して呉《く》れた老爺《おやぢ》は私《わたし》の傍《そば》に遣《や》つて来た。
『お参りに来る人がそれでも随分あるだらうねえ?』かう私《わたし》が訊《き》くと、
『え、時には御座《ござ》いますがな。たんとはありません。皆《みん》な遠いで御座《ござ》いますから……。』
『お前さん、余程《よほど》前から、番人をして居《ゐ》るのかね?』
『お墓が出来た時からかうして番人を致して居《を》ります』
 と爺《おやぢ》は言つて、『何《ど》うも一人で何《なに》も彼《か》も致すで、草がぢきに生《は》えて困りますばい。二三日鎌さ入れねえとかうでがんすばい』と、傍《そば》に青くなつた草を指《ゆびさ》した。
 四月の十四日――父の命日には、年々床の間に父の名の入つた石摺《いしずり》の大きな幅《ふく》をかけて、机の上に位牌と御膳《おぜん》を据ゑて、お祭をした。其《その》頃いつも八重さくらが盛《さか》りで、兄はその爛※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]《らんまん》たる花に山吹《やまぶき》を二枝《ふたえだ》ほど交《ま》ぜて瓶《かめ》にさして供へた。伯母《おば》は其《その》日は屹度《きつと》筍《たけのこ》を土産《みやげ》に持つて来た。長い年月《としつき》――さうして過した長い年月《としつき》を、此《この》墓守の爺《ぢゝ》は、一人さびしく草を除《と》つて掃除して居《ゐ》たのだ。
 私《わたし》は墓の前に跪《ひざまづ》いた。

 一人息子であつた父の戦死を嘆いた祖父母も死んだ。夫に死なれた為《た》めに、険しいさびしい性格になつて常に家庭の悲劇を起した母も死んだ。難《むづ》かしい母親の犠牲になつた兄も死んだ。
 弾丸《たま》を胸部《むね》に受けて、野に横《よこたは》つた父の苦痛と、長い悲しい淋しい生活を続けた母の苦痛と、家庭の悲惨な犠牲になつて青年の希望も勇気も消磨《せうま》しつくして了《しま》つた兄の苦痛と――人生は唯《たゞ》長い苦痛の無意味の連続ではないか。
 私《わたし》は父の戦死から生じた総《すべ》ての苦痛を味《あじは》つて来た。絶望が絶望に続き、苦痛が苦痛に続いた。その絶望と苦痛の中《うち》で、私《わたし》は人の夫となり、人の親となつた。総領の男の児《こ》は、丁度《ちやうど》今|私《わたし》が父に死別《しにわか》れた時の年齢と同じである。
 私《わたし》は父親のことよりも、自分と妻と児《こ》のことを考へた。過去よりも現在が烈《はげ》しく頭を衝《つ》いた。
『人間はかうして生存して居《ゐ》るのだ。かうして現在から現在を趁《はし》つて、無意味の中《うち》に生れて、生きて、で、そして死んで行くのだ』
『平凡なる事実だ。言ふを待たざることだけれど、事実だ』
 私《わたし》はジツとして墓の前に立つて居《ゐ》た。
 いろいろな顔や、いろいろな舞台《シーン》が早く眼の前を過ぎた。父の若かつた時のことから、自分の児《こ》の死ぬ時までのことが直線を為して見えるやうに思はれる。死は死と重なり、恋は恋と重なり、苦痛は苦痛と重なり、墓は墓と重なり、そして人生は無窮に続く。
 私《わたし》は四|辺《へん》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまは》した。かうした長い連続を積上げて行く一日一日のいかに平凡に、いかに穏《をだや》かであるかを思つた。日影は暑くなり出した。山には朝の薄い靄《もや》が靡《なび》いて、複雑した影を襞《ひだ》ごとにつくつた。青い田と田の間《あひだ》の小《ち》さい蓮池には紅白の花が咲いた。
 墓を去つて、笠松《かさまつ》の間《あひだ》の路《みち》を街道に出やうとしたのは、それから十分ほど経つてからのことであつた。何《なん》だか去るに忍びないやうな気がした。かうした思《おもひ》を取集めて考へることは、一|生《しやう》中《ちう》幾度《いくど》もないやうにさへ思はれた。人間は唯《たゞ》※[#「總のつくり、怱の正字」、66−下−8]忙《そうばう》の中《うち》に過ぎて行《ゆ》く……味《あぢは》つて居《ゐ》る余裕すらないと又繰返した。
 松は濃い影を地上に曳いた。田の境の溝《どぶ》には藺《ゐ》がツンツン出て、雑草が網のやうに茂つてゐた。見て居《ゐ》ると街道には車が通る、馬が通る、児《こ》をたゞ負《おん》ぶした田舎の上《かみ》さんが通る、脚絆《きやはん》甲《かふ》かけの旅人が通る。鍛冶屋《かぢや》の男が重い鉄槌《てつゝち》に力をこめて、カンカンと赤い火花を通《とほり》に散らして居《ゐ》ると、其隣《そのとなり》には建前《たてまへ》をしたばかりの屋根の上に大工が二三人|頻《しき》りに釘を打附《うちつ》けて居《ゐ》た。



底本:「ふるさと文学館 第五〇巻 【熊本】」ぎょうせい
   1993(平成5)年9月15日初版発行
底本の親本:「趣味 第4巻4号」易風社
   1909(明治42)年
初出:「趣味 第4巻4号」易風社
   1909(明治42)年
入力:林田清明
校正:鈴木厚司
2010年3月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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