に見せる。なるほど問題はむずかしかった。数学に長じた郁治にもできなかった。
 北川は漢学には長じていた。父親は藩《はん》でも屈指の漢学者で、漢詩などをよく作った。今は町の役場に出るようになったのでよしたが、三年前までは、町や屋敷の子弟に四書五経《ししょごきょう》の素読《そどく》を教えたものである。午後三時ごろから日没前までの間、蜂《はち》のうなるような声はつねにこの家の垣からもれた。そのころ美穂子は赤いメリンスの帯をしめて、髪をお下げに結《ゆ》って、門の前で近所の友だちと遊んだ。清三はその時分から美穂子の眼の美しいのを知っていた。
 郁治と清三が暇《いとま》をつげたのは夜の九時過ぎであった。若い人々は話がないといっても話がある。二人はそこを出てしばしの間|黙《だま》って歩いた。竹藪のガサガサする陰の道は暗かった。郁治の胸にも清三の胸にもこの際浦和の学校にいる美穂子のことがうかんだ。「あの時――郁治がそれと打ち明けた時、なぜ自分もラヴしているということを思いきって言わなかったろう」と清三は思った。けれど友の恋はまだ美穂子に通じてあるわけではない。恋された人の知らぬ前に恋した人の心を自分は
前へ 次へ
全349ページ中81ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング