た。
「まだ、考えていないけれど、ことによると、日光か妙義に行こうと思うんだ。君は?」
「僕はそんな余裕はない。この夏は英語をいま少し勉強しなくっちゃならんから」
 美穂子がこの夏休暇をここに過ごすということがなんの理由もなしに清三の胸に浮かんで、妬《ねた》ましいような辛い心地がした。
 今夜は父母の家に寝て、翌朝早く帰ろうと思った。現に、郁治にもそう言った。けれど路の角《かど》で郁治と別れると、急に、ここにいるのがたまらなくいやになって、足元から鳥の立つように母親を驚かして帰途についた。明朝郁治がやって来て驚くであろうという一種|復仇《ふっきゅう》の快感と、束縛せられている力からまぬがれ得たという念と、たとえがたいさびしい心細い感とを抱いて、かれはその長い夕暮れの街道をたどった。
 寺に帰った時は日が暮れてからもう一時間ぐらいたった。和尚《おしょう》さんは庫裡《くり》の六畳の長火鉢のあるところで酒を飲んでいたが、つねに似ず元気で、「まア一杯おやんなさい」と盃《さかずき》をさして、冷やっこをべつに皿に分けて取ってくれた。今まで聞かなかった主僧の幼いころの話が出る。九歳の時、この寺の小僧
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