「名誉をおって、都会の塵《ちり》にまみれたって、しかたがありませんな……どんなに得意になったって、死が一度来れば、人々から一滴の涙をそそがれるばかりじゃありませんか。死んでからいくら涙をそそがれたってしかたがない!」
主僧の眉はあがっていた。
その夜は遅くまで、清三はいろいろなことを考えた。「名誉」「得意の境遇」それをかれは眼の前に仰いでいる。若い心はただそれのみにあこがれている。けれど今宵《こよい》はなんだかその希望と野心の上に一つの新しい解決を得たように思われる。かれは綴《とじ》の切れた藤村の「若菜集」を出して読《よ》みふけった。
本堂には如来様《にょらいさま》が寂然《じゃくねん》としていた。
十五
裏の林の中に葦《よし》の生《は》えた湿地《しっち》があって、もと池《いけ》であった水の名残りが黒く錆《さ》びて光っている。六月の末には、剖葦《よしきり》がどこからともなくそこへ来て鳴いた。
寺では慰みに蚕《かいこ》を飼《か》った。庫裡《くり》の八畳の一間は棚や、筵《むしろ》でいっぱいになって、温度を計るための寒暖計が柱にかけられてあった。かみさんが白い手拭
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