われた。かれは一首ごとに一|頁《ページ》ごとに本を伏せて、わいて来る思いを味わうべく余儀なくされた。この瞬間には昨夜役場に寝たわびしさも、弥勒《みろく》から羽生《はにゅう》まで雨にそぼぬれて来た辛《つら》さもまったく忘れていた。ふと石川と今夜議論をしたことを思い出した。あんな粗《あら》い感情で文学などをやる気が知れぬと思った。それに引きかえて、自分の感情のかくあざやかに新しい思潮に触れ得るのをわれとみずから感謝した。渋谷の淋《さび》しい奥に住んでいる詩人夫妻の佗《わ》び住居《ずまい》のことなどをも想像してみた。なんだか悲しいようにもあれば、うらやましいようにもある。かれは歌を読むのをやめて、体裁《ていさい》から、組み方から、表紙の絵から、すべて新しい匂いに満たされたその雑誌にあこがれ渡った。
 時計が二時を打っても、かれはまだ床の中に眼を大きくあいていた。鼠《ねずみ》の天井を渡る音が騒がしく聞こえた。
 雨は降ったりはれたりしていた。人の心を他界に誘うようにザッとさびしく降って通るかと思うと、びしょびしょと雨滴《あまだ》れの音が軒の樋《とい》をつたって落ちた。
 いつまであこがれていたッてしかたがない。「もう寝よう」と思って、起き上がって、暗い洋燈《らんぷ》を手にして、父母の寝ている夜着のすそのところを通って、厠《かわや》に行った。手を洗おうとして雨戸を一枚あけると、縁側に置いた洋燈《らんぷ》がくっきりと闇を照らして、ぬれた南天の葉に雨の降りかかるのが光って見えた。
 障子を閉《た》てる音に母親が眼を覚まして、
「清三かえ?」
「ああ」
「まだ寝ずにいるのかえ」
「今、寝るところなんだ」
「早くお寝よ……明日が眠いよ」と言って、寝返りをして、
「もう何時だえ」
「二時が今鳴った」
「二時……もう夜が明けてしまうじゃないか、お寝よ」
「ああ」
 で、蒲団《ふとん》の中にはいって、洋燈《らんぷ》をフッと吹き消した。

       八

 翌日、午後一時ごろ、白縞《しろじま》の袴《はかま》を着《つ》けて、借りて来た足駄《あしだ》を下げた清三と、なかばはげた、新紬《しんつむぎ》の古ぼけた縞の羽織を着た父親とは、行田の町はずれをつれ立って歩いて行った。雨あがりの空はやや曇《くも》って、時々思い出したように薄い日影がさした。町と村との境をかぎった川には、葦《あし》や藺《い》や白楊《やなぎ》がもう青々と芽を出していたが、家鴨《あひる》が五六羽ギャアギャア鳴いて、番傘と蛇《じゃ》の目《め》傘《がさ》とがその岸に並べて干されてあった。町に買い物に来た近所の百姓は腰をかけてしきりに饂飩《うどん》を食っていた。
 並んで歩く親子の後ろ姿は、低い庇《ひさし》や地焼《じやき》の瓦《かわら》でふいた家根や、襁褓《むつき》を干しつらねた軒や石屋の工作場や、鍛冶屋《かじや》や、娘の青縞を織っている家や、子供の集まっている駄菓子屋などの両側に連なった間を静かに動いて行った。と、向こうから頭に番台を載せて、上に小旗を無数にヒラヒラさしたあめ屋が太鼓をおもしろくたたきながらやって来る。
 父親は近在の新郷《しんごう》というところの豪家に二三日前書画の幅《ふく》を五六品預けて置いて来た。今日行っていくらかにして来なければならないと思って、午後から弥勒《みろく》に行く清三といっしょに出かけて来たのである。
 ここまで来る間に、父親は町の懇意な人に二人会った。一人は気のおけないなかまの者で、「どこへ行くけえ? そうけえ、新郷へ行くけえ、あそこはどうもな、吝嗇《けち》な人間ばかりで、ねっかららちがあかんな」と言って声高くその中年の男は笑った。一人は町の豪家の書画道楽の主人で、それが向こうから来ると、父親はていねいに挨拶《あいさつ》をして立ちどまった。「この間のは、どうも悪いようだねえ、どうもあやしい」と向こうから言うと、「いや、そんなことはございません。出所がしっかりしていますから、折り紙つきですから」と父親はしきりに弁解した。清三は五六間先からふり返って見ると、父親がしきりに腰を低くして、頭を下げている。そのはげた額を、薄い日影がテラテラ照らした。
 加須《かぞ》に行く街道と館林《たてばやし》に行く街道とが町のはずれで二つにわかれる。それから向こうはひろびろした野になっている。野のところどころにはこんもりとした森があって、その間に白堊《しらかべ》の土蔵などが見えている。まだ犁《くわ》を入れぬ田には、げんげが赤い毛氈《もうせん》を敷いたようにきれいに咲いた。商家の若旦那らしい男が平坦な街道に滑《なめ》らかに自転車をきしらして来た。
 路は野から村にはいったり村から野に出たりした。樫《かし》の高い生垣《いけがき》で家を囲んだ豪家もあれば、青苔《あおごけ》が汚なく生《は》え
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